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「 美術評論家連盟 2016年度シンポジウム《美術と表現の自由》当日記録 」

表題のシンポジウム録、公開されました。
シンポジウム当日、会場に来られなかった+来ても満員で入ることができなかった(済みません……)方々、ぜひこちらをお読みいただければ幸いです。

http://www.aicajapan.com/eventframe.htm
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# by rnfrst | 2016-09-22 09:43

「親密さについて 結社の論理 「パープルタウンにおいでよ」展」『美術手帖』2016年10月号

パープルームによる展覧会の展評を寄稿しました。
短いレビュー論考ですが、そもそも「アンティミテ」と「結社」は並立するのか?というツッコミはあると思いますが、並立するのだ!という内容です。
ぜひご一読を。

http://www.bijutsu.press/books/2016/09/-201610.html
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# by rnfrst | 2016-09-19 11:01

「「表現の自由」の危機」

 このところ、日本国内の美術界において、暗雲がたちこめている。美術表現に対する公権力の介入を、まずは列挙してみる。2014年、美術家のろくでなし子の逮捕・起訴。同年、愛知県美術館で開かれた「これからの写真」展に出品された、鷹野隆大の作品に対する、警察の指導。この二つの事例は、美術界の「外」からの介入ということになるが、さらに厄介なのは、次に挙げる事例である。
 2015年、東京都現代美術館で開かれた「ここはだれの場所?」展における、会田家(美術家の会田誠、岡田裕子夫妻とその子息の会田寅次郎によるグループ)による作品に対する、美術館それ自体および行政の介入による、作品展示撤去要請。2016年、同じく東京都現代美術館で開催された「キセイノセイキ」展の展示内容に対する、やはり美術館内部からの度重なる展示内容改変要請。このように明白に指摘できるほど、問題が表面化する事態が立て続けに起こっているのは、異常な事態である。
 筆者は、上記の諸問題に対して、都度、抗議声明を発したり、裁判において美術の専門家として意見書を提出したり、一言論人として論考を発表したりしてきた。国内には、美術評論家連盟という1954年に結成された団体が存在しており、私もその会員である。7月24日に東京都美術館の講堂において、連盟主催で「美術と表現の自由」と題されたシンポジウムが開催され、私も報告者およびパネリストとして登壇した。
 シンポジウムでの議論については、近日中、連盟のウェブサイトでその内容全体が公開される予定なので、内容についてはここでは説明しない。近年の表現規制については、性表現にかかわるもの、国政に対する批判的コメントとして提示されたもの、さらには天皇表象にかかわるものといったように、とりわけ日本の戦後において、「表現の自由」という名のもとに、繰り返し闘争が起こり、芸術にかかわる側から言えば、常に自らの自由を獲得するために、その自律的領域を確保しようとしてきたのであり、目新しい問題であるわけではない。けれども、ここ数年の国内情勢を鑑みるに、美術もまた社会と遊離して存在しているわけではない以上、それらの情勢と無関係とは言えない。
 問題は、公権力の側にのみあるわけではない。小泉政権時代の行政改革の流れ以後、高度な知識と倫理を備える専門職の従事者によって支えられてきた公教育(ミュージアムは教育機関である)は、「公設民営」化に伴う組織の相乗りによって、責任主体の所在が不明瞭になり、典型的な「無責任体質」を醸成に結びついたと思われる。東京都現代美術館の事例は、管理職レヴェルの上司が、既に展覧会企画が進んでいるさなかに、事後的に展示改変を要求するという、無茶な要求がなされたことが、外部に漏洩したという茶番劇であった。そのような茶番において、享受すべき権利を剥奪されるのは、美術家であり、教育機会を得るはずの市民である。
 上述のような事例は、日本の都市部で起こった事例であるが、沖縄では無関係であるかと言えば、そんなことはないだろう。先だっての参議院選挙の終了直後、なりふり構わず高江のヘリパッド工事を強行する政府が、美術も含むところの文化行政に対して介入してこない保証はどこにもない。県の文化行政の不見識を蒸し返すならば、2011年、沖縄県立博物館・美術館では、当時館長であった牧野浩隆が、館長の独断で、石川文洋がベトナム戦争の光景を撮影した著名な収蔵写真作品を撤去したという事例もあったことは明記しておこう。
 以上のような事態は、近代化が未成熟であるままの状態で、グローバリゼーションの時代に突入し、あからさまな弱肉強食がまかり通る状況の反映以外のなにものでもない。過去に戻ることができない以上、現在の極めて不安定な土壌でなんとか踏ん張るしかないわけだが、美術界にもまた、そのような「有事」への足音は、すぐ近くまで来ていることを、自覚しておかねばならない。

『沖縄タイムス』2016年8月26日
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# by rnfrst | 2016-09-14 10:49

西島大介 X 土屋誠一「止めろと言われても止められないところまで来ているので、突破する」

現在、ワタリウム美術館の地下にあるオン・サンデーズにて個展を開催中の西島大介さんと対談します。
西島さんには『美術手帖』誌上で11年前に私がインタビュアーでお会いしたこともある(その記事は現在、西島さんの『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』(ちくま文庫)に収められています)のですが、そのあとは一切お会いする機会もなく、私は西島さんの仕事を継続して追ってきましたが、11年ぶりのリユニオンということもあり、同世代の継続すべきクリエイターとしてその活動を追ってきた私としては、とても楽しみです。
西島さんはめちゃくちゃ弁が立つ(というか、弾丸トークでどんどん話が横滑りしていく 笑)ので、私は交通整理と、西島さんの現在のスタンディングポイントを射抜く役回り、ということになると思いますが、アラフォーのオッサン二人はやる気満々ですので、どうぞご来場いただければ!

西島大介 X 土屋誠一
「止めろと言われても止められないところまで来ているので、突破する」
日時:9月17日(土)、20~22時
会場:オン・サンデーズ(ワタリウム美術館地下書店)
参加費:1500円(税込)
申込: onsundays@watarium.co.jp
長年にわたる「西島ウォッチャー」として漫画作品のみならず、そのジャンルを逸脱した表現活動の全域を注視してきた美術批評家・土屋誠一氏をゲストに迎えてのトーク・イベント。「美術手帖」2005年6月号「特集:物語る絵画」以来公の場では11年ぶりとなる、盟友同士によるシン・ゴジラばりに情報密度高めの対話にご期待ください。
http://www.watarium.co.jp/onsundays/html/

【展覧会】
西島大介 ぼうやがいっぱい/So Many Boys
会期:2016年8月26日(金)~9月25日(日)
会場:オン・サンデーズ
http://www.watarium.co.jp/onsundays/event/event&cafe.html
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# by rnfrst | 2016-09-13 17:38

土屋誠一に聞きたい!100のこと@たみ(鳥取)8月25日

鳥取大学の筒井宏樹先生の研究室が合同で主催する「にんげん研究会」で、鳥取に参上することになりました。
100個の質問が投げかけられるそうで、戦々恐々としております……。
近隣にお住まいの方、よろしければご来場ください。
なにが起こるのか、私も当日行ってみないとわからないですが、頑張って面白い会にします。

トーク「土屋誠一に聞きたい!100のこと」
ゲスト:土屋誠一氏(沖縄県立芸術大学准教授)
聞き手:田中優 門脇瑞葉 (鳥取大学筒井宏樹研究室)

日 時|2016年8月25日(木)19:00〜
場 所|たみ
参加費|無料
企画|鳥取大学にんげん研究会(地域学部五島・仲野・小泉・筒井研究室)
お問い合わせ|ninninninlab@gmail.com
にんげん研究会facebook|https://www.facebook.com/ningenkenkyukai/?fref=ts

http://www.tamitottori.com/news/log/201608_927.html
https://www.facebook.com/ningenkenkyukai/posts/537790396406830
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# by rnfrst | 2016-08-14 12:01

「美術月評〈7月〉」

 石垣克子は、どこまでその芸術家としての展開を広げるのか、畏怖するばかりだ。実質的に石垣の個展といっていいであろう、定期的に開かれる「夏のopen sksk」(sksk、7月23日~30日)では、近作と新作が、会場の壁面全体に全面展開されていた。
 石垣自身は至って堅実に、そして着実に作品の制作を続けているわけだが、そのような唯物論的事実と裏腹であるかのように、タブローであれ、ペン画であれ、コルクを使用した作品であれ、その他雑多な制作物であれ、すべてが等価で聖性を宿している。
 現世と常世のあいだにそれらは位置し、観る者を宙吊りの地点へと連れて行く。このような感想は、単なる印象批評に過ぎないとの誹りを覚悟で言っているつもりだが、もう少し美術史的なアプローチで語るならば、宗教画の系譜に、構図だけで言うならば、あたかもミケランジェロの〈最後の審判〉を思わせなくもない。
 ただし、石垣の描くものは、西洋の一神教は相応しくなく、東洋の多神教的なそれと親和的である。序列のない等価な、石垣が描くキャラクターは、全てが霊性を宿しており、ほとんど曼荼羅に近い。
 このような前近代的な説明をせざるを得ないのは、美術批評において敗北を認めるようなものだ。この美術月評欄で私はしばしば石垣の作品を取り上げてきたが、石垣の作品を視覚情報の事実性のみに頼って説明するのは、もはや限界である。
 逆に言えば、石垣の作品を、狭い「美術」なる制度のみに囲い込むことほど、退屈であることはないとすら思う。とはいえ、批評家の役割としては、なんらかの方法で作品を言語化する必要があるので、今はせいぜいその方法を考えるしかないわけだが、このような文章を綴らせてしまうほど、少なくとも私にとっては慄くしかないのであり、そしてそれは、少なからぬ人々に共有されるはずであると信ずるものである。
 「2016年・沖縄写真 まぶいぐみ連続写真展vol.4 花城太&長崎健一」(galleryラファイエット、7月23日~31日)の、長崎健一の作品には注目したい。作品は、長崎の故郷である宮古島の祭祀「6月ニガイ」の様子を撮影したものである。沖縄の祭祀を撮影する写真家は、比嘉康雄や比嘉豊光らが先行するわけだが、その後の世代となると、絶えて久しかったように思う。
 勿論、祭祀の様子を通過者として撮影していく写真家は少なからずいるだろうが、長崎のように、自ら数年かけて祭に参加し、粘り強く撮影するような観測者は、寡聞にして知らない。長崎の写真は、モノクロのストレート写真という、極めてオーソドックスなものだが、そのことを批判するつもりは、少なくとも私には一切ない。
 周知のとおり、沖縄の各地で行われてきた祭祀は、継承者を失い消滅していこうとしている。これは、近代化の必然的な帰結である。しかし、それでもなお、数多くの祭祀が残存していることは、厳然とした事実である。
 そのような事実性にしっかりと対峙し、近代の申し子であるカメラを携えつつ、毎年の祭祀に参加する長崎の率直な心性を、誰が批判できるであろうか。長崎が祭祀を通じて一体何を見つめているのか、いつの日か写真集としてまとめられることを期待しておきたい。
 歴史検証としての展覧会としては、「琉球王国のやきもの」(首里城公園黄金御殿特別展示室、7月8日~10月5日)、「王国の染織」(那覇市歴史博物館、7月8日~8月31日)が開かれており、両方とも質の高い作品が展示されている。
 特に前者は、初めて観るような新鮮さを持つ優れた品が出品されており、琉球国時代の工芸品の良質なエッセンスが注意深く選ばれているという印象を受けた。
 後者はしっかりとした展覧会カタログも製作されており、総じて学芸員の高い意欲を感じる。ただ、それらの工芸品が、どのような歴史的位置づけを持つのか、特に新しい視点が提示されていなかったのが、いささか残念ではあると思うのは欲張り過ぎであろうか。前者は、朝鮮の陶工が来琉して400年を記念する企画であり、県内各施設で連鎖的に関連する展覧会が開かれるそうなので、そちらにも期待したいところではある。
 「平敷兼七二人展シリーズ『沖縄人人』vol.2 平敷兼七×石川竜一」(平敷兼七ギャラリー、5月20日~8月14日)は、優れた写真家である平敷を顕彰することを否定するものではないが、全国、そして海外と展覧会が続き過ぎている石川は、このペースで展覧会のオファーを引き受けていくと、写真家として潰れてしまうのではないかといささか心配だ。
 私もまた、石川の仕事を優れたものと評価する者であるが、撮影から展示や写真集の出版に到達するまでは、それなりの時間を要するのは当然であり、ほとんど月に平均1本ぐらいの展覧会をこなしているかのような現在の石川には、そもそも撮影している時間があるのだろうか。
 写真家が撮影していないとするならば、本末転倒になるのは自明であり、様々な展覧会に引っ張りだこになるのはいいが、しばしクールダウンする必要もあるのではないかと、大きなお世話かもしれないが、素朴に心配するものである。

『沖縄タイムス』2016年8月5日
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# by rnfrst | 2016-08-12 19:48

「読書 根間智子『Paradigm』」

 美術家の根間智子が、写真集を出版するという話は、本人との個人的な会話で、数年前から聞いてはいた。近年、根間も編集同人である『las barcas』の誌上で、双子の姉妹を被写体にした、極めて印象的な写真作品を発表していたので、その系列の作品を集成した写真集だと思い込んでいた。
 この写真集は、凝りに凝った造本設計も含め(実物を手に取って確かめていただきたい)、根間が本気でこの作品を提示していることが、ページをめくる前から物質的に伝わってきたが、驚いたのは中身の写真である。双子の姉妹の写真ではなく、茫漠としたイメージが延々と続く写真集だったからだ。
 この写真集で提示されるイメージは、ブレ、ボケといった写真が多くを占めている。写真集のタイトルである『Paradigm』(パラダイム)とは、言語学者のソシュールに由来する「範列」の意味と解したほうがいいのだろう。ならば、各々の写真は等価であり、かつ交換可能なものであると捉えるべきで、任意の気にいったページを、行ったり来たりして観ればいい。けれども、それだけではこの写真集は終わらない。
 この書物の末尾にテキストを寄稿している新城郁夫も注目しているが、例えば空を飛ぶ鳥の群れのカットのように、しっかりピントが合い、シャッタースピードも適切で、ブレてもいない写真がちらほら含まれている。被写体とその意味がある程度了解できるので、一見すると安心するかもしれないが、むしろ戦慄的だ。なぜなら人は、意味から逃れられないことを逆説的にこれらの写真が指摘しているからだ。つまり、我々は見たいものしか見ないのである。
 根間は、意味の病に対して、決して暴力的に介入するわけではなく、そっとイメージを差し出す。勿論それは、観るものを慰撫する現状肯定ではなく、例えば浜辺から海景を臨むカットがそうであるように、未来への予兆に満ちている。その未来が明るいものかどうかは、観るものに委ねられている。

『沖縄タイムス』2016年7月30日
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# by rnfrst | 2016-07-31 11:26

「読書 根間智子『Paradigm』」『沖縄タイムス』2016年7月30日

本日付の『沖縄タイムス』読書欄で、美術家の根間智子さんの写真集についての書評を寄稿しました。
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# by rnfrst | 2016-07-30 13:55

「一九四五以前の「沖縄美術」?」『ゲンロン3 脱戦後美術』

既にツイッターなどでは既報ですが、一般書店販売が開始されたのでポストします。
哲学者の東浩紀さんが刊行している『ゲンロン』最新号に、表題の論考を寄稿しました。
「脱戦後日本美術」という特集号で、拙稿はともあれ、座談会や他の日本語論考、翻訳論考など、理論的に今日の「世界美術」をにらみつつも「戦後日本美術」を相対化し、乗り越えるためには必読だと思われます。
ちょっとだけ舞台裏を明かすと、この原稿を依頼された折は、「沖縄と美術とをからめて書いてほしい、ただしポストコロニアリズム的な言説はナシで」という、いやいや、植民地状態が継続中の沖縄で、その依頼はハードル高いだろ!と思ったものの、政治的実践とは別に、先回りして理論構築するためには、これまで積み重ねられてきたポストコロニアリズム的視点での沖縄の美術の読解には限界があるのは明らかだったので、今回は結果的に「古代」まで遡る視点を提示しました。
断っておくと、これは、単なる「古代回帰」などでは全然なく、近代主義的な立場をとっていても後退戦になるのは明らかであり、では何が創造のためのリージョナルなリソースとして考えられるのかを考えるために、戦後沖縄ではよく知られた(しかし、「本土」ではあまり知られていない)人文地理学者・民俗学者の仲松弥秀を召喚しつつ、沖縄という場所の空間構成を論じたというものです。
と、説明を加えても、余計に混乱するだけだと思いますので(笑)、とにかく読んでみてください!

https://genron-tomonokai.com/genron/

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# by rnfrst | 2016-07-29 10:38

「すぐわかる!「キャラクター論」の展開」『美術手帖』2016年8月号

「特集 キャラクター生成論」内の記事として、表題のテキストを寄稿しました。概ね、大塚英志からスタートし、東浩紀から今日まで至るキャラクター論を網羅したつもりですが、結構使い出があるんじゃないかな?と自負しております。
お読みいただければ!

http://www.bijutsu.press/books/2016/07/-201683dcgvr.html
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# by rnfrst | 2016-07-21 16:50