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土屋誠一に聞きたい!100のこと@たみ(鳥取)8月25日

鳥取大学の筒井宏樹先生の研究室が合同で主催する「にんげん研究会」で、鳥取に参上することになりました。
100個の質問が投げかけられるそうで、戦々恐々としております……。
近隣にお住まいの方、よろしければご来場ください。
なにが起こるのか、私も当日行ってみないとわからないですが、頑張って面白い会にします。

トーク「土屋誠一に聞きたい!100のこと」
ゲスト:土屋誠一氏(沖縄県立芸術大学准教授)
聞き手:田中優 門脇瑞葉 (鳥取大学筒井宏樹研究室)

日 時|2016年8月25日(木)19:00〜
場 所|たみ
参加費|無料
企画|鳥取大学にんげん研究会(地域学部五島・仲野・小泉・筒井研究室)
お問い合わせ|ninninninlab@gmail.com
にんげん研究会facebook|https://www.facebook.com/ningenkenkyukai/?fref=ts

http://www.tamitottori.com/news/log/201608_927.html
https://www.facebook.com/ningenkenkyukai/posts/537790396406830
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# by rnfrst | 2016-08-14 12:01

「美術月評〈7月〉」

 石垣克子は、どこまでその芸術家としての展開を広げるのか、畏怖するばかりだ。実質的に石垣の個展といっていいであろう、定期的に開かれる「夏のopen sksk」(sksk、7月23日~30日)では、近作と新作が、会場の壁面全体に全面展開されていた。
 石垣自身は至って堅実に、そして着実に作品の制作を続けているわけだが、そのような唯物論的事実と裏腹であるかのように、タブローであれ、ペン画であれ、コルクを使用した作品であれ、その他雑多な制作物であれ、すべてが等価で聖性を宿している。
 現世と常世のあいだにそれらは位置し、観る者を宙吊りの地点へと連れて行く。このような感想は、単なる印象批評に過ぎないとの誹りを覚悟で言っているつもりだが、もう少し美術史的なアプローチで語るならば、宗教画の系譜に、構図だけで言うならば、あたかもミケランジェロの〈最後の審判〉を思わせなくもない。
 ただし、石垣の描くものは、西洋の一神教は相応しくなく、東洋の多神教的なそれと親和的である。序列のない等価な、石垣が描くキャラクターは、全てが霊性を宿しており、ほとんど曼荼羅に近い。
 このような前近代的な説明をせざるを得ないのは、美術批評において敗北を認めるようなものだ。この美術月評欄で私はしばしば石垣の作品を取り上げてきたが、石垣の作品を視覚情報の事実性のみに頼って説明するのは、もはや限界である。
 逆に言えば、石垣の作品を、狭い「美術」なる制度のみに囲い込むことほど、退屈であることはないとすら思う。とはいえ、批評家の役割としては、なんらかの方法で作品を言語化する必要があるので、今はせいぜいその方法を考えるしかないわけだが、このような文章を綴らせてしまうほど、少なくとも私にとっては慄くしかないのであり、そしてそれは、少なからぬ人々に共有されるはずであると信ずるものである。
 「2016年・沖縄写真 まぶいぐみ連続写真展vol.4 花城太&長崎健一」(galleryラファイエット、7月23日~31日)の、長崎健一の作品には注目したい。作品は、長崎の故郷である宮古島の祭祀「6月ニガイ」の様子を撮影したものである。沖縄の祭祀を撮影する写真家は、比嘉康雄や比嘉豊光らが先行するわけだが、その後の世代となると、絶えて久しかったように思う。
 勿論、祭祀の様子を通過者として撮影していく写真家は少なからずいるだろうが、長崎のように、自ら数年かけて祭に参加し、粘り強く撮影するような観測者は、寡聞にして知らない。長崎の写真は、モノクロのストレート写真という、極めてオーソドックスなものだが、そのことを批判するつもりは、少なくとも私には一切ない。
 周知のとおり、沖縄の各地で行われてきた祭祀は、継承者を失い消滅していこうとしている。これは、近代化の必然的な帰結である。しかし、それでもなお、数多くの祭祀が残存していることは、厳然とした事実である。
 そのような事実性にしっかりと対峙し、近代の申し子であるカメラを携えつつ、毎年の祭祀に参加する長崎の率直な心性を、誰が批判できるであろうか。長崎が祭祀を通じて一体何を見つめているのか、いつの日か写真集としてまとめられることを期待しておきたい。
 歴史検証としての展覧会としては、「琉球王国のやきもの」(首里城公園黄金御殿特別展示室、7月8日~10月5日)、「王国の染織」(那覇市歴史博物館、7月8日~8月31日)が開かれており、両方とも質の高い作品が展示されている。
 特に前者は、初めて観るような新鮮さを持つ優れた品が出品されており、琉球国時代の工芸品の良質なエッセンスが注意深く選ばれているという印象を受けた。
 後者はしっかりとした展覧会カタログも製作されており、総じて学芸員の高い意欲を感じる。ただ、それらの工芸品が、どのような歴史的位置づけを持つのか、特に新しい視点が提示されていなかったのが、いささか残念ではあると思うのは欲張り過ぎであろうか。前者は、朝鮮の陶工が来琉して400年を記念する企画であり、県内各施設で連鎖的に関連する展覧会が開かれるそうなので、そちらにも期待したいところではある。
 「平敷兼七二人展シリーズ『沖縄人人』vol.2 平敷兼七×石川竜一」(平敷兼七ギャラリー、5月20日~8月14日)は、優れた写真家である平敷を顕彰することを否定するものではないが、全国、そして海外と展覧会が続き過ぎている石川は、このペースで展覧会のオファーを引き受けていくと、写真家として潰れてしまうのではないかといささか心配だ。
 私もまた、石川の仕事を優れたものと評価する者であるが、撮影から展示や写真集の出版に到達するまでは、それなりの時間を要するのは当然であり、ほとんど月に平均1本ぐらいの展覧会をこなしているかのような現在の石川には、そもそも撮影している時間があるのだろうか。
 写真家が撮影していないとするならば、本末転倒になるのは自明であり、様々な展覧会に引っ張りだこになるのはいいが、しばしクールダウンする必要もあるのではないかと、大きなお世話かもしれないが、素朴に心配するものである。

『沖縄タイムス』2016年8月5日
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# by rnfrst | 2016-08-12 19:48

「読書 根間智子『Paradigm』」

 美術家の根間智子が、写真集を出版するという話は、本人との個人的な会話で、数年前から聞いてはいた。近年、根間も編集同人である『las barcas』の誌上で、双子の姉妹を被写体にした、極めて印象的な写真作品を発表していたので、その系列の作品を集成した写真集だと思い込んでいた。
 この写真集は、凝りに凝った造本設計も含め(実物を手に取って確かめていただきたい)、根間が本気でこの作品を提示していることが、ページをめくる前から物質的に伝わってきたが、驚いたのは中身の写真である。双子の姉妹の写真ではなく、茫漠としたイメージが延々と続く写真集だったからだ。
 この写真集で提示されるイメージは、ブレ、ボケといった写真が多くを占めている。写真集のタイトルである『Paradigm』(パラダイム)とは、言語学者のソシュールに由来する「範列」の意味と解したほうがいいのだろう。ならば、各々の写真は等価であり、かつ交換可能なものであると捉えるべきで、任意の気にいったページを、行ったり来たりして観ればいい。けれども、それだけではこの写真集は終わらない。
 この書物の末尾にテキストを寄稿している新城郁夫も注目しているが、例えば空を飛ぶ鳥の群れのカットのように、しっかりピントが合い、シャッタースピードも適切で、ブレてもいない写真がちらほら含まれている。被写体とその意味がある程度了解できるので、一見すると安心するかもしれないが、むしろ戦慄的だ。なぜなら人は、意味から逃れられないことを逆説的にこれらの写真が指摘しているからだ。つまり、我々は見たいものしか見ないのである。
 根間は、意味の病に対して、決して暴力的に介入するわけではなく、そっとイメージを差し出す。勿論それは、観るものを慰撫する現状肯定ではなく、例えば浜辺から海景を臨むカットがそうであるように、未来への予兆に満ちている。その未来が明るいものかどうかは、観るものに委ねられている。

『沖縄タイムス』2016年7月30日
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# by rnfrst | 2016-07-31 11:26

「読書 根間智子『Paradigm』」『沖縄タイムス』2016年7月30日

本日付の『沖縄タイムス』読書欄で、美術家の根間智子さんの写真集についての書評を寄稿しました。
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# by rnfrst | 2016-07-30 13:55

「一九四五以前の「沖縄美術」?」『ゲンロン3 脱戦後美術』

既にツイッターなどでは既報ですが、一般書店販売が開始されたのでポストします。
哲学者の東浩紀さんが刊行している『ゲンロン』最新号に、表題の論考を寄稿しました。
「脱戦後日本美術」という特集号で、拙稿はともあれ、座談会や他の日本語論考、翻訳論考など、理論的に今日の「世界美術」をにらみつつも「戦後日本美術」を相対化し、乗り越えるためには必読だと思われます。
ちょっとだけ舞台裏を明かすと、この原稿を依頼された折は、「沖縄と美術とをからめて書いてほしい、ただしポストコロニアリズム的な言説はナシで」という、いやいや、植民地状態が継続中の沖縄で、その依頼はハードル高いだろ!と思ったものの、政治的実践とは別に、先回りして理論構築するためには、これまで積み重ねられてきたポストコロニアリズム的視点での沖縄の美術の読解には限界があるのは明らかだったので、今回は結果的に「古代」まで遡る視点を提示しました。
断っておくと、これは、単なる「古代回帰」などでは全然なく、近代主義的な立場をとっていても後退戦になるのは明らかであり、では何が創造のためのリージョナルなリソースとして考えられるのかを考えるために、戦後沖縄ではよく知られた(しかし、「本土」ではあまり知られていない)人文地理学者・民俗学者の仲松弥秀を召喚しつつ、沖縄という場所の空間構成を論じたというものです。
と、説明を加えても、余計に混乱するだけだと思いますので(笑)、とにかく読んでみてください!

https://genron-tomonokai.com/genron/

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# by rnfrst | 2016-07-29 10:38

「すぐわかる!「キャラクター論」の展開」『美術手帖』2016年8月号

「特集 キャラクター生成論」内の記事として、表題のテキストを寄稿しました。概ね、大塚英志からスタートし、東浩紀から今日まで至るキャラクター論を網羅したつもりですが、結構使い出があるんじゃないかな?と自負しております。
お読みいただければ!

http://www.bijutsu.press/books/2016/07/-201683dcgvr.html
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# by rnfrst | 2016-07-21 16:50

「記憶と文化」国際シンポジウム 7月18日・19日

下記のシンポジウムに、コメンテーターとして登壇します。
ぜひ足をお運びください。

「記憶と文化」国際シンポジウム
日時:2016年7月18日(月)・19日(火)
場所:早稲田大学戸山キャンパス33号館第1会議室

第一部
7月18日(月)17:00開始
報告:William Marotti (UCLA)
タイトル:Dramatic Politics and Political Space: Shinjuku 1968
司会:梅森直之(早稲田大学)
コメント:
橋本一径(早稲田大学)
土屋誠一(沖縄県立芸術大学) ほか
言語:英語/日本語(同時通訳なし)

第二部
7月19日(火)10:40開始
ビデオ上映『海の民 沖縄島物語』(1942/モノクロ/35ミリ/27分)
パネルディスカッション:文化映画のなかの沖縄をめぐって
モデレーター:上地聡子(早稲田大学)
パネリスト:
Tze May Loo(University of Richmond)
Wendy Matsumura(UC San Diego) ほか
言語:英語/日本語(同時通訳なし)

第三部
7月19日(火)14:45開始
報告:Christopher T. Nelson (University of North Carolina of Chapel Hill)
タイトル:Iphigenia in the China Sea: The politics of memory in postwar Japan
司会:橋本一径(早稲田大学)
コメント:
土屋誠一(沖縄県立芸術大学)
梅森直之(早稲田大学)ほか

言語:英語/日本語(同時通訳なし)

主催 戦略的基盤形成支援事業
「近代日本の人文学と東アジア文化圏―東アジアにおける人文学の危機と再生(文学学術院)」
共催 早稲田大学地域・地域間研究機構

https://www.waseda.jp/flas/hss/news/2016/07/13/2401/
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# by rnfrst | 2016-07-15 11:27

新編「太陽の鉛筆」を巡って(下)

 今回の復刊で、『太陽の鉛筆』が広く目にとまるようになるならば、それ自体は慶賀すべきことだ。しかし、東松の仕事の系列の中で、『太陽の鉛筆』がとにかく収まりが悪いと、私自身ずっと思ってきた。
 東松照明という写真家は、彼の言う「アメリカニゼーション」、目下の論壇の言葉に置きなおせば戦後日本の「永続敗戦レジーム」(白井聡)の様相に対して、自覚的に目を向けるということだった。それが東松の一生涯抱えたテーマであることは明白だと思う。とはいえ説明するのは簡単でも実践するのは困難であり、同時にそれは、15歳の年に敗戦を迎えたという世代だからこそなし得たのだと思う。そういった点で、私は東松照明という写真家を心底偉大だと思ってきたし、生前に何度かお目にかかった際には、あの世代の大物特有のオーラに、身の縮む思いをしたことは、今でも記憶に鮮明だ。
 批評家の傲慢だと言われればそれまでだが、東松という写真家が日本の戦後の芸術において、歴史的にどれだけ重要な人物であり、一体何をなし得たのか、私自身が一番よく知っていると勝手に思い込んでいる(勝手に思うのは私の勝手である)。だからこそ、このなんとも語りづらい『太陽の鉛筆』について言及することは、可能な限り回避してきた。
 『太陽の鉛筆』に至る過程の公式的な説明は、次のようなものだ。まず東松は、1950年代末から、日本国内各所に所在する、日米安保をその後ろ盾にするところの、米軍基地や基地街を撮影し始める。沖縄の本土「復帰」前、まだ撮影していない基地として沖縄のそれが残っており、その撮影のため、文字通り占領下が継続する沖縄に赴くことになる。それは、緊急出版的な趣でまずは『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』(1969年)という写真集として出版されるわけだが、異邦の地である沖縄に来て東松が気付いたのは、本土とは異なる沖縄の光や、街や村が醸し出す風土の違いである。それを捉えるために、モノクロフィルムからカラーフィルムに転換し、周辺の小島も含む宮古、八重山を南下しつつ、さらには、東南アジアまで、あたかも民族、あるいは文化のルートが海を隔てて繋がっていると見立て、東アジア、東南アジアの各地で撮影された写真と、沖縄でのそれをミックスするという編集手法をとった。そのことで東松は、「戦後日本」のくびきから解かれ、沖縄を出発地にして海上のルートを自由に行き来することになる、と。
 以上が、私なりに要約した、写真家・東松照明の『太陽の鉛筆』に至る公式的な過程であるが、その説明で本当にいいのだろうか、そこにはいくらかの逃避は混ざっていはしないか、とずっと納得できないままできた。『太陽の鉛筆』には、東松自身のテキストが、他の彼の写真集と比べて多く収録されているし、並行してつづられたエッセイを集成した『朱もどろの華』という書物すら存在する。つまり、自由になった東松は、その前後の時代に比べて、少なくとも表面に見えるテキストの物量で言えば、あまりにも雄弁なのだ。そしてその雄弁さと裏腹に、『太陽の鉛筆』においては離脱したことになっていた「基地」は確かに存在していた(今もしている)のであり、その離脱した欠落の分だけ、言葉で覆い隠すことに執心しているように見える。
 だからもし、沖縄にとどまって写真家としての活動を行うならば、在沖縄の写真家たちにとって敬愛する対象である反面、圧倒的な他者として君臨していた東松の『太陽の鉛筆』は、まずは括弧に入れて、自らの仕事に集中したほうがいいだろう。相変わらずの「占領」の下にある沖縄にいて、逃げ場のない焦燥感を抱えなければならないならば、『太陽の鉛筆』はあまりにも幸福に見えすぎると思う。私は、東松が抱えてきた「戦後日本」の「占領」という重苦しいテーマから、東松がひと時の離脱を試みた写真集だと考えており、その離脱に、東松がなんのわだかまりも感じなかったかと言えば、聡明すぎる写真家である東松は、恐らく前述のようなことも理解していたと思う。

『琉球新報』2016年7月2日
※タイトルに(下)とありますが、(上)は同紙前日掲載号に初沢亜利氏が執筆したものになります。
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# by rnfrst | 2016-07-11 22:18

美術評論家連盟2016年度シンポジウム「美術と表現の自由」

私も加入している美術評論家連盟主催のシンポジウムが、下記日程で開かれます。
私は、昨今の東京都現代美術館をめぐる諸々についての事例報告ののちに、討議にも登壇しますが、アクチュアルなテーマですのでぜひご来場を。

美術評論家連盟2016年度シンポジウム「美術と表現の自由」

日時
2016年7月24日(日)13:00~17:00
会場
東京都美術館 講堂 (東京都台区上野公園8-36 )

http://www.aicajapan.com/topframe.htm
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# by rnfrst | 2016-06-25 18:31

「伝統について(祝・創刊50号!)」『新・方法』50号

表題のテキストを寄稿しました。
短いですが、最近の関心を率直に書いてみました。
半分は、「旧・方法」に対するネタ的イジリですが(笑)。
ともあれ、お読みいただければ幸いです。

http://7x7whitebell.net/new-method/bulletin/b050_j.html
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# by rnfrst | 2016-06-05 15:42