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「ことばの再魔術化のために 歌と音楽(下)」

ことばの再魔術化のために 歌と音楽(下)

 10月半ばに、那覇のパレット市民劇場で行われた、KOHAKUというグループは、「新作童謡」を演奏することを標榜するグループだ。現代音楽のスペシャリストであるソプラノ歌手とピアニスト、そして詩人からなるグループなのだが、彼女らの専門性の背景は、「現代音楽」に「現代詩」という、それぞれ高度な読解能力を、聴衆や読者に要求するジャンルである。なぜ彼女らが、「新作童謡」を委嘱し、演奏しなければならないかといえば、「現代」を冠とする音楽であれ詩であれ、それらがあまりに複雑化したため、閉塞状態にあることに自覚的であるからだろう。
 KOHAKUの音楽は、歌詞は現代詩の領域にいる詩人によって、楽曲は現代音楽に属する作曲家によって書かれている。けれども、KOHAKUが提供する音楽は、楽曲は遊び心に溢れており、歌詞はしっかり聴き取れる上、子どもでも理解できる内容だ。注意すべきは、彼女らの音楽が「子ども向け」なのではなく、大人の鑑賞にも充分に耐える深さをたたえているという点だ。安易な「子ども向け」など、当の子どもは聴く耳を持たない。子どもは、大人が本気になっているかどうかに対しては、シビアな批評眼を持っている。
 私はこの稿の最初に、「ことばの弱体化」ということを言った。実際、世界は複雑になりすぎ、一体どの言葉を信じていいのか、判断もおぼつかない状態にあると思う。例えば多文化主義とは、文字通り文化の多様性を認めるということであるが、逆に言えば、真実のことばなどどこにも存在しないという相対主義と、表裏をなす。真実を語る神は、不在であるか、文化圏の異なる複数の神々が、互いに背を向け合って同居しているだけである。場合によっては神々は、互いの正統性を主張するために、喧嘩を始めるだろう。先日のパリでのテロは、まさにそのことの悲劇的な現実化である。
 では歌は、どこに向かうべきか。そもそも歌の発祥は、神謡がそうであるように、神的なものと密接に関わっていたのではないか。ならば、ことばの弱体化は、歌とことばが切り離された結果ではないか。そこで私たちのなすべきことは、歌とことばを再縫合し、現代の複雑さに目を逸らすことなく、神なき世界において、ことばを再魔術化することだ。だから、童謡と言っても、「子ども向け」なのではなく、大人が子どもに語りかける本気の言葉として、投げかけられるものであるはずだ。それは、西洋音楽を移入した際の、唱歌のような、規律や教化のためのものではなく、現代の複雑さを通過した上で、達成されるものではなかろうか。
 これは非常に困難な道だ。進むべき道は明瞭には見えないが、進まなければならない。そんなことを、神謡がまだ息づいている沖縄にいて思う。

『沖縄タイムス』2015年12月18日
by rnfrst | 2015-12-20 08:29
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