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2017年 10月 02日 ( 1 )

【展評】湯川隆彫刻展

 今日の私たちは、彫刻を捉えるしかたが、とてもわからなくなっている。なぜそうなのか、経緯を記してみる。
 西洋美術では、絵画は「タブロー」という運搬可能かつ比較的堅牢な形式を生み出すことができた。壁画や建物の構造物の一部となっていた彫像などは、そもそも建築の一部に従属するものであったが、建築という拘束から徐々に離れ、絵画にせよ彫刻にせよ、各々の自律したジャンルであることを主張してきた。
 しかし、20世紀前半の「抽象化」の時代を経て、それが極まった到達点で絵画・彫刻というジャンルの自明性は解体してしまい、今日の「現代美術」においては、通俗的かつ便宜的に「平面・立体」などと呼ぶこと自体ナンセンスなほど、いかなる媒体に基づくであれ、それが「美術」と認定されるか否かのみによって、美術作品であるというような、相対化の極みにまで到達してしまった。
 彫刻においてはまだしも、モニュメント(記念碑)としての機能はあったものの、それもまた公共空間において、人によっては醜悪と捉えられるようになっているのが現状であり、このことは同時に、彫刻というもののコンセンサスを確立することが不可能であることを、結果的に示しているだろう。
 のっけからネガティヴなことを書き連ねたが、以上のような前提を共有した上で、それでもなお「彫刻」としか呼びようがない営みを、堅実に継続している彫刻家が存在することを、踏まえる必要がある。湯川隆は、西洋の文脈における正統的な彫刻作品を、頑固なまでに創り続けている彫刻家として、ひとまず捉えるべきだからだ。とはいえ湯川の近年の作品の企(たくら)みには、彼が構想するヴィジョンを実現するための、新しいアイデアが組み込まれていることには気づいておいたほうがいい。
 今回の展観もそうであるが、ほとんどの作品において、木のボディーに彩色されたテラコッタの頭部が接合されている。あまりにも違和感がないため、大した問題ではないと考えてしまうかもしれないが、決してそうではない。もし、木とテラコッタの複合ではなく、例えば木彫のみによる作品であれば、あるいはテラコッタのみによる作品であれば、いずれにしても、木、ないしテラコッタの素材それ自体が、強く自己主張するはずだ。湯川は木とテラコッタを慎重にアレンジすることで、素材主義に陥ることを結果的には回避しているのだ。
 ではなぜ、そのような手続きが必要なのか。湯川が造るのは人体像であるが、人体が人体らしく存在するためには、材料ではなく「魂」のようなものをそこに感知させねばならない。魂という物質ならぬ感覚は、微細な動作によって与えられている。風になびくような、あるいはふと考えるような湯川の人物像の仕草は、それが大げさではない、微細な所作であるがゆえに、作品と対面する鑑賞者の心を動かさせる。そしてその心理的な動きは、幾ばくか人間を超越したような存在者との対面にも似ている。
『沖縄タイムス』2017年9月20日
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by rnfrst | 2017-10-02 11:47