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母たちの神-比嘉康雄展

沖縄県立博物館・美術館において、表題の展覧会が開催されています。
言うまでもありませんが、比嘉康雄は、戦後沖縄で最も重要な写真家の一人で、とりわけ琉球弧における祭祀に、カメラによって深いまなざしを注いだ人物です。
この展覧会は、晩年の比嘉康雄が、写真集としての刊行を目指していた写真群がベースになっており、内容としては、大作である『神々の古層』(全12巻、ニライ社)からさらに、琉球弧のエッセンスが濃厚に抽出されたようなものである、と言えるでしょう。
私はこの展覧会に、実行委員会の一員として、ここ1年ちょっとの期間、関わってきました。
そういったわけで、客観的な説得力はいまいち欠きますが、とはいえ、かなり興味深い展覧会になっていると思われます。
見逃すと絶対に後悔することになると思われますので(笑)、沖縄県内在住の方はもとより、県外在住の、とりわけ、写真に関心のある方は、ご覧になることをお勧めします。
ちなみに私は、12月25日(土)に開かれるシンポジウムに登壇する予定です。
詳細は下記URLを。
http://www.museums.pref.okinawa.jp/art/topics/detail.jsp?id=572
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by rnfrst | 2010-11-12 11:33

美術月評〈10月〉

 まずは、「阪田清子展 止まったカーテン」(画廊沖縄、9月18日~10月3日)を、筆頭に挙げておかないわけにはいかないだろう。
 この個展において提示された新作である、風に煽られた一瞬を固定したかのような、文字どおりの「止まったカーテン」は、長く沖縄を拠点とする本土出身の美術家である阪田の作品であることを考慮すると、日本本土と沖縄との関係の、その隠喩であるかのように見えるかもしれない。
 実際、そのような読みが誤っているわけではないが、カーテンという隠喩は、それのみにとどまらない、より広範な連想へと、見る者の想像力を働かせる。カーテンが遮り、かつ、分割するものは、カーテンを隔てた「こちら」と「あちら」であり、それは民族や国家を隔てるマクロな政治にかかわるものである一方、より身近には「わたし」と「あなた」といったようなミクロな関係性のなかにも、交通の(不)可能性についての政治が潜んでいることをも示唆する。
 またこの作品は、肯定性と否定性を同時に指し示す両義的な隠喩であると同時に、カーテンそのものの持つ物質的な特性によって成立しており、極めて繊細ながらも彫刻的な特質も、そこには維持されている。単なるメッセージ・アートにとどまらない、造形的な側面においても深く探求がなされた、質の高い表現が実現されていた。
 想像力ということで言えば、「金美羅個展 〈王国〉」(県立芸術大学附属図書・芸術資料館、10月8日~13日)は、現代的な想像力の在り処を提示するものであった。舞台の書き割りのような設えのなかに、様々な文化における伝統的なモチーフと、現代生活の様々な器物を共存させて描き込むという絵画作品である。
 要するに、ローカリティとグローバリゼーションの同時共存の状態を、想像上の「王国」として描くということが、金の絵画の主題であるわけだ。このような説明だけでは、陳腐なアイデアに基づく作品であるかのように聞こえるかもしれないが、その陳腐さは否定されるべきものではない。金の作品は、陳腐な想像力によって描かれているのではなく、我々の想像力が陳腐化されていることを自覚的に可視化したものであるという点において、現代性に対する鋭敏な感覚が刻まれている。
 「伊禮若奈写真展 母になった記憶」(南風原文化センター、10月9日~17日)で提示された、写真家自身の子どもや家族といった、生活臭のただよう日々の様子を淡々と綴る写真群は、一言で言えば「日常」を指向している。つつましやかな家庭生活や日々の暮らしをあたかも淡々とスナップすることで、その可視化されたものの背後に、共同体の伝統的慣習と現代生活との間に横たわる矛盾、あるいはもっと広く、今日の沖縄における様々な問題点を、そこはかとなく暗示するということが、伊禮の作品の主眼であろう。
 沖縄の現実を深くまなざすことは、沖縄という場において活動することに意識的な芸術家において、少なからず共有されている重要な主題であることは間違いないが、伊禮の作品の場合、その手掛かりが、あまりにも私的な領域においてのみに閉ざされているように見える。私的で凡庸な日常にこそ、政治が潜んでいるのは事実であるし、私性からそのような政治を抉りだすことは、表現の目指す一つの道筋ではあろう。だが、伊禮の展覧会のタイトルが示すような親と子の「日常」は、少なくとも伊禮の写真においては、写真家個人の私的領域を超えるものではない。
 そこにある日常や現実を超え出る想像力を発揮しているという点では、石垣克子という作家は、あまりにもその特質が低く見積もられ過ぎているように思われる。石垣を中心として組織されたグループ展「ueki・ 日常のさりげない緑」(One’s Room gallery & studio、ocvワークショップルーム、10月22日~31日)には、様々な媒体で造形活動を行う作家が参加していたが、その中でもずば抜けて、石垣の作品群が優れていた。シンプルに造形された可愛らしいキャラクターを描く画家として、石垣という作家は理解されていると思われるが、石垣の画家としての特質は、そのような描くものの「可愛らし」さだけに所在するわけではない。
 それよりも重要なのは、この作家自身が、作品を自動生産する機械のような存在であるという点だ。自らに到来した一つのイメージは、連鎖的に膨大な数のイメージを生産することを促す。石垣の作品を複数点見ると、その背後に無数の作品が潜在していることが見て取れる。自動生産的な機械としての画家が描くものは、人間個人の卑小な自意識や着想を超えて、人間がなし得る想像力=創造力の臨界点を垣間見せる。修辞的に言うならば、石垣という画家が絵画を描くのではなく、石垣自身が絵画なのである。
 このグループ展で石垣は、写真やドローイングといった機動性の高いメディアを用いた作品を発表していたが、それゆえに、イメージの連鎖的な生産というこの画家の特質が、極めて顕著に現われていた。見た目の「可愛らし」さに反して、石垣という作家から湧き出るイメージの噴出には、戦慄すら覚える。
 年中行事の「沖縄県芸術文化祭」(県立博物館・美術館、10月16日~24日)の美術の公募部門では、仲里安広の作品が、最高賞である県知事賞を受賞していたが、極めて順当な受賞であろう。しかし、仲里のような優れた作家が、なぜこのような玉石混交の公募展に出品しなければならないのか、いささか理解し難い。この受賞を機に、仲里の作品が、よりよい環境で発表されることを期待したい。
 他に、写真家の丑番直子による「ゆくリズム写真展」(桜坂劇場内・Cha-gwa、10月2日~17日)、「山城芽展 氷鏡の夜」(CAMP TALGANIE、10月9日~31日)、「大城朝利彫刻展」(ギャラリーアトス、10月22日~31日)などがあった。

『沖縄タイムス』2010年11月5日
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by rnfrst | 2010-11-06 15:10

『沖縄タイムス』2010年11月5日 「美術月評〈10月〉」

『沖縄タイムス』の本日付の記事として、「美術月評」を寄稿しました。
取り上げた展覧会は、画廊沖縄で開催された阪田清子展など。
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by rnfrst | 2010-11-05 21:21