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展評 写真集をめぐる一つの提案 写真集×映像

 貴重な、しかし極めて困難な展覧会である。この展覧会で扱われている「写真集」という媒体はそれ自体、「作品」としての表現形式である。写真集は、さまざまな写真が収められた作品の一覧ではない。複数の写真が編まれることによって、写真集それ自体が一つの「作品」となる。特に、日本で刊行され続けてきた写真集は、そのようなかたちで特異な進化を遂げてきた。
 写真集が本という形式による「作品」であるならば、最も望ましい鑑賞形式は、冒頭から順に頁を繰り、時には頁をめくる手を止めてじっくりと1枚のイメージに眼を止めたり、あるいはめくっていた頁を遡って既に通過した頁を改めて確認したりしながら、実際の写真集を手に取るということになる。
 だから、写真集を鑑賞するということは、「観る」という経験よりもむしろ、「読む」という経験に近い。われわれは写真集に収められた写真の前後関係やシークエンスの構成に注意を払いながら、写真を「読む」のである。
 そのため写真集は、展示することが極めて難しいのだ。展示された資料は、原則的には手に取ることができず、「観る」ことを求めている。しかし、写真集それ自体は、「読」まれることを欲している。展覧会の企画者は、その困難さに自覚的であったはずだ。この根本的な困難さを解決する一つの方法として、「動画」という手法が導入されている。
 この展覧会に「出品作家」として参加した大山健治の映像作品は、頁を繰るシークエンスを動画に収めた。しかし、大山の映像作品は、物質としての写真集の細部に、いささかこだわり過ぎていたように思われる。写真集の物質的側面をクローズアップすればするほど、写真集は「読」まれるものよりもむしろ、「観」られるものへと漸近してしまうからだ。
 「展示」された写真集も同様に、原則的には頁が繰られることがない以上、物質として「観」られることが強調されてしまう。展示という行為によって写真集の物質性が際立てば際立つほど、写真集はフェティッシュと化してしまう。そのような根本的なジレンマが、この展覧会では明らかになっていたようだ。
 とはいえ、今回のような試みが失敗だと言いたいわけではない。写真集というものが、自律した表現形式であるということを明確に語っている点で、半ば成功していると言えるだろう。この展覧会は、写真集を見せることによって、鑑賞者がこの展覧会を観た後に、自発的に写真集というメディアを読むことを促しているという意味において、教育的である。
 言い添えておかなければならない点は、陳列された写真集の中に、第2次大戦の戦時体制下の軍国主義的プロパガンダの目的で制作されたものが含まれていたということだ。
 勿論企画者は、そのようなイデオロギーを肯定しているわけではなかろう。戦争で多大な災厄を被った沖縄において、そのような写真集を見せられることは、皮肉ではある。しかし、写真表現がそのようなプロパガンダに加担したという事実を「なかったこと」にはすべきではない。
 鑑賞者には、写真集が帯びているそのような文脈も注視して「読む」こともまた、求められているのだ。

『琉球新報』2014年4月29日
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by rnfrst | 2014-04-30 07:01

『琉球新報』2014年4月29日「展評 写真集をめぐる一つの提案 写真集×映像」

『琉球新報』の本日付の記事として、表題の記事を寄稿しました。
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by rnfrst | 2014-04-29 13:35

トークイベント「隠喩としての狂女」

4月27日(日)に、柳井信乃さんの個展「うつし身」の関連トークイヴェントに登壇します。
3時間の長丁場になるようなのですが、柳井さんの作品から、阿部定をてこにして近代日本を考える、といったような内容になるんじゃないかと予想しています。
柳井さんの個展情報含め、下記に開催情報を貼っておきます。


 この度、オルタナティブ・スペース「monsHirop」では、monsHirop art weekとして柳井信乃による個展「うつし身」を行います。
 本展では、戦前である昭和十一年ー二・二六事件が起きた年であり、世相が大きく変わろうとしていた時代ーに実際に起きた猟奇的な阿部定事件をモチーフに、人間の本質にあるものをうつそうと試みた作品を発表します。
以下のイベントと重ねて、是非ご来場ください。

柳井信乃個展「うつし身」

※本個展・以下イベントへのご来場は完全予約制になります。必ず CONTACT からご予約・お問い合わせをお願いします。

会期: 4月19日(土)-4月27日(日)
月~金16:00 -20:00 土・日12:00 - 21:00
※ 4月25日(金)は休館しています。

場所: 「monshirop」 〒271-0091 千葉県松戸市本町15-4 ハマトモビル

■オープニング・ライブイベント「monsHirop art night」
4月19日(土)19:00-
参加無料・ゲスト出演ライブ・フードドリンク有り。

■関連トークイベント「隠喩としての狂女」
4月27日(日)15:00-18:00
出演:
土屋誠一(美術批評家・沖縄県立芸術大学准教授)
毛利嘉孝(社会学者・東京藝術大学准教授)
柳井信乃(アーティスト)
司会:居原田遥(東京藝術大学大学院)
参加費:¥1000(1ドリンク+フード付き)
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by rnfrst | 2014-04-08 16:22

美術月評〈3月〉

 「内山依津花×七海愛2人展」は、那覇市のGallery土(2月27日~3月5日)と、糸満市のGallery Apartment(3月25日~30日)との2会場で開催されたが、糸満を会場とした後者のほうが、より充実した展覧会だった。画家の内山と写真家の七海との、互いに扱うメディアの異なる2人展であるが、2人で展覧会を行うこと自体には、さほど大きな意味はなかろう。しかし、それぞれの作家は、確かなその特質を、展覧会で発揮していた。ここでは後者の展示を取り上げておきたい。
 まず内山は、ほとんど線描のみを主体とする画家と言っていいだろう。その作品は、絵画というよりも、ドローイングと言ったほうがより近い。けれども、ドローイングがタブローに劣るわけでは全くない。内山は、半透明のロールの紙に、延々と線を描き続ける。それは、具象的な形態を再現するわけではなく、複数の線はよじれた幹のような形態になり、あるいはその幹にうろこ状に線描がまとわりつき、全体にヴォリューム感のある線描の流れのようなかたちを描き出す。油性ペンで下図もなしに、端から順番に慎重に描かれたであろうその描写は、ある種の彫刻的な質すらも感じさせる。この画家は、線描で形態を創出するのに圧倒的な才能を持っていると言わざるを得ない。そこには、現代アートに求められるようなメッセージ性は皆無である。しかし、絵を描く、そして、その絵を鑑賞する視覚的快楽が、陳腐な意味などを凌駕している。比類ない形態を創出する才能にたけているという点だけとっても、造形芸術の作家としての特質を、充分に感じさせる作品であることは間違いない。
 一方七海の写真は、那覇での会場ではモノクロのスナップ写真を展示していたが、後者の糸満の会場では一転してカラー写真を提示していた。七海のカラー写真は、ストレートフォトではなく、デジタルの画像データをコンピューター上で重ねあわせたものであるが、ストレートフォトよりもむしろ、このデジタル上での画像処理を施されたカラー写真のほうが、より「写真的」に見えた。カメラで捉えられた個別のイメージは、なにげない光景である。しかし、個別のイメージが複数、単一の画面に重ねあわされることで、いわば異界的なイメージを創り出すことに成功していた。そもそも写真とは、その歴史の黎明期までさかのぼれば、魔術的な技術であった。そのようなある種の回顧性を、古いアナログメディアで再現するのではなく、デジタルの技術で創出し得るところに、七海の優れた写真というものの把握があるのだろう。最新の技術を使用することで、むしろ写真の根源的なものの淵へと触れているところに、七海の写真家としての特性が刻まれていた。
  「福長香織彫刻展 呼吸する風景」(CAMP TALGANIE artistic farm、1日~23日)は、ここ6、7年の福長の仕事が部分的にではあれ総覧でき、近作によるちょっとした回顧展のような趣があった。技法は石彫から鍛金と、バラエティーに富んでいると言えるものの、私が注目したのは、会場の広い壁に点在するように設置された、さほど大きくはない取っ手状の石彫の作品である。近代以降の彫刻は、場所の制限から自立した時点で「作品」と見做されるのが常だが、福長のこの作品は、立体的な造形物であるゆえに彫刻であり、しかし、壁に設置されることを前提としている点においては絵画であり、さらに機能的にはあきらかに「取っ手」としての役割を示唆しているという点で興味深い。ここで行われていることは、ジャンルの変換であるのと同時に、それが潜在的ではあれ使用目的の変換でもある。彫刻は他の表現ジャンルに比して、その重さゆえに苦戦を強いられているが、福長のこの文字通り軽やかな「取っ手」でもある「彫刻」は、彫刻というジャンルのひとつの可能性を示唆していたように思われる。
  「渡久地葉月写真展 The other side」(Galley Space PinoO、21日~24日)は、ほとんどが那覇で撮影されたと思しき、なにげない風景が写し取られていた。渡久地の写真の特徴は、その中庸さであることは間違いない。なにひとつ、明白に訴えかけることのない個々のイメージは、むしろその中庸さゆえに、沖縄の都市の光をリアルに捉えている。沖縄の都市部に行けば誰しもわかるように、観光イメージによくあるような、青い海や空はどこにも存在しない。むしろ都市を照らしているのは、ニュートラルな光である。このなにも訴えかけないような写真群は、それゆえに路上からの目線の沖縄の都市部を、的確に捉えているように思われる。このようなクールな写真の実践は、案外沖縄ではあまり取り組まれていないという点においても、渡久地の作品に注目していくべきであろう。
  「齋悠記絵画展 まいにち」(kufuu、14日~23日)は、オーソドックスにフォーマリスティックな抽象画であると言っていいが、確かな豊かさを持った絵画空間を生成していた。絵画の生っぽさは注意深く拭い去られ、絵画的イメージとしか呼べないような空間性を実現していたという点は、決して低く見積もるべきではない。
 最後に、「さんてん」(旧・若松薬局、2月28日~3月9日)に出品されていた、上地愛乃の作品には触れておきたい。ナルシスティックな少女性をむき出しにした映像インスタレーションと言っていいと思うが、ナルシシズムも極まれば、不気味な説得力を持つ。上地が今後どのような作品を展開していくのかは不明だし、彼女の作品が優れていたと断言するにははばかられるのだが、極端な少女的ナルシシズムにはある種の戦慄を覚えたのは確かであり、次なる展開を期待させるに十分ではあった。

『沖縄タイムス』2014年4月4日
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by rnfrst | 2014-04-05 22:03

『沖縄タイムス』2014年4月4日 「美術月評〈3月〉」

『沖縄タイムス』の本日付の記事として、「美術月評」を寄稿しました。
「いろいろあって」、久しぶりの月評の寄稿です。
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by rnfrst | 2014-04-04 12:01

『東京都写真美術館 紀要』13号「シンポジウム「日本写真の1968」全記録」

昨年の6月15日に開催された、表題のシンポジウムの再録が掲載されました。
ここ[PDF]にもPDF版が掲載されていますので、ぜひご一読ください。
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by rnfrst | 2014-04-01 18:14