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美術月評〈3月〉

 「パブロ・ピカソ『ゲルニカタピスリ』沖縄特別展」(沖縄県立博物館・美術館、3月19日~4月17日)は、美術館で入場料を徴収して見せる展覧会としては、いくらなんでも不十分すぎることを、この展覧会の企画者は考えたのであろうか。展示物としては、群馬県立近代美術館が収蔵している《ゲルニカ》のタピスリ版が中心で、その他は、ピカソのこの1937年に描かれた代表作の準備スケッチを集成した、ファクシミリ版が主である。
 つまり、この展覧会には、いわゆる「オリジナル」の作品は展示されていない。ピカソの活動した20世紀は、まさに「複製技術」の全面的展開が開始されるタイミングと符合しており、美術もまたオリジナルとコピーとの区別において曖昧な状態に晒されざるを得なくなったことを考えれば、「複製品」のみによるこの展覧会も、そのような美術作品の地位に対する批評的な介入とでも呼べるかもしれないが、どう好意的に見ても、そのような切り口を提示するものではまったくない。この《ゲルニカ》タピスリ版は、著作権者によって真正性が保証されているものではあるが、作品のオリジナリティーの地位は、一段下がることを認めざるを得ないだろう。
 このような「複製品」ばかりの展覧会を見せられては、さすがに「金返せ」とも言いたくなるのは当然であり、そんな事態が堂々とまかり通ってしまう沖縄の美術界の未来に、暗澹とせざるを得ない。また、この展覧会は、第二次大戦の終戦70周年に引っ掛けた企画として企図されたものだそうだが、今日のピカソおよび《ゲルニカ》についての議論は、反戦を訴えかける社会派作品として「だけ」では、この作品の特質を理解できないというのが、もはや一般的な理解であり、そもそもピカソと共産主義との関わりですらも、進歩的知識人としてのトレンドに過ぎなかったのではないかという理解が主である。
 そのようなピカソをめぐる、それこそ近代美術史の教科書レヴェルの言説を踏まえていれば、この作品を観て素朴に反戦平和を願うなどと考えるには、あまりにもナイーヴすぎると言わざるを得ず、反戦平和の思想的地位もここまでのポピュリズムに堕したのかと、この複雑な現代社会を思うに、未来は厳しいと思う次第である。
 批判はきりがないのでこの程度にして、複製技術に基づく表現としては、同会場で開かれている「エヴァンゲリオン展」(沖縄県立博物館・美術館、3月25日~5月8日)の元になっている作品がまさにそうで、言うまでもないがこの展覧会は、「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ作品の、いわば原画展と言っていいだろう。
 このようなサブカルチャーの複製技術に基づく作品を、展覧会というフォーマットに落とし込むものとしては、主にひたすら原画を見せるという、あまりにもストイックな展示方法であったが、展覧会の是非は置くとして、こちらの展覧会のほうが「ゲルニカ展」よりも、ずっとアクチュアルである。なぜなら、これはよく指摘されることではあるが、「エヴァンゲリオン」という作品は1995年にTV放送されて、衝撃をもって受け止められたアニメ作品であり、この年は、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、Windows95のリリースを嚆矢としたインターネット元年、さらに沖縄では、あの米兵による痛ましい暴行事件が起こった年である。
 「失われた20年」と言われて久しいが、2016年現在、日本全体、沖縄、そして世界情勢も含めて、明るい展望の少ないなんとも沈鬱とした年月を過ごしているわけで、極めて殺伐としたアニメ作品であった「エヴァンゲリオン」の様々な原画を観ていると、この20年間の鎮魂歌とすら感じてしまう。
 ある意味では、目下の社会は、1995年のパラダイムから一歩も脱出できていないと考えることもできるわけであり、この展覧会を観ることで、改めて「エヴァンゲリオン」という作品を観返すきっかけになれば、イベントとしての展覧会としては成功なのではないかと思うし、20年前のコンテンツは現在の大学生ぐらいの世代にとっては既に、「歴史的事項」となっているのであって、教育的価値すら帯びていると考えるものである。
 「山城見信展 KURŪ(黒)(佐喜眞美術館、3月3日~5月9日)は、この伝説的な画家の個展にようやく接することができ、評者としては極めて感慨深かった。15年ぶりの個展であるというが、山城は沈黙していたわけではなかった。この間山城は、日録のように、紙のような簡易な支持体に、自在に筆を動かし、絵の具をたらすという行為を行っていたそうだ。
 そのようなドローイング(と呼んでいいのだろう)の集積を、選択し、配列し、それを絵画作品として提示するのである。個々の画面は、墨で描かれた太い線が基調をなしており、その線は、場合によっては虫などを想起させる記号として見える。
 それゆえ、画面の奥へと後退する視覚的なイリュージョンは最小限にとどまっており、黒の形象と、たらされた絵の具の物質性が強調されている。イリュージョンが抑制されることによって、同系列のドローイング群が横滑りしつつも互いに呼応しあい、展示されたドローイングの背後に、この10数年の反復的行為の積み重ねが想起される。
 いわば、山城の生それ自体を、描くことによって記録していき、その微細な身体的行為の積み重ねが「作品」化されているのであって、もはや山城にとっては、完結したタブローは乗り越えられたのであろう。
 既に老境に達しているこの画家が、今もまだ自由闊達に表現活動を続けているということに、驚きを感じ得ないし、月並みな評言ではあるが、生の歓びが展開されたこの個展から、観る者は勇気を得ることは間違いない。
 「平敷兼七×勇崎哲史」(平敷兼七ギャラリー、2月20日~5月15日)は、沖縄「復帰」前後に宮古島狩俣で撮影された祭祀の様子を、それぞれが撮影した写真によって構成されていた。フレーミングの構築力の強い平敷の写真、逆に、動きの表象を強調する勇崎の写真と、それぞれの特性に差異はあるが、まだ若かったこの二人の写真家の交友を偲ばせる。展覧会は興味深かったのだが、それよりも気になったのは、既に没した平敷、そして、ヴェテランの域を超えた勇崎もそうだが、これらの写真の去就が今後どうなるか、ということだ。勿論、これらの写真は、特定の写真家が撮影した「作品」だと割り切れば、彼らや彼らの周囲の人物たちが結論付ければいいだろうだろうが、沖縄での美術作品を、どのようにして残し、伝えていくのか、課題は山積している。
 「第68回沖展」(浦添市民体育会、3月19日~4月3日)にも触れたかったのだが、もう紙幅がない。この紙上での美術月評を担当し始めてから、かれこれ7年経過したが、思うところがあって、この沖縄の美術工芸会におけるビッグイヴェントについては、あえて言及しないできた。しかし、評者は毎年この展覧会を欠かさず観に行っていることだけは、事実として告白しておこう。

『沖縄タイムス』2016年4月8日
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by rnfrst | 2016-04-09 16:09

『disPLACEment 「場所」の置換 vol.3 佐々木友輔New Film(TRAILer)』リーフレット完成!

表題のリーフレットが完成しました。
去年の12月に、佐々木友輔さんの先行する作品「土瀝青 asphalt」の上映会を、私の本務校の沖縄県立芸術大学で行いました。
しかし勿論、ただ単に佐々木さん本人をお招きして上映会をするだけではなく、私の本当の目論見としては、佐々木さんに沖縄本島を撮影してもらうことであって、実際に上映会より先に前乗りしていただいて、実際に撮影を行いました。
その際のフッテージが「作品」になるかどうかは今後次第ですが、「紙上トレイラー(予告編)」として、こっそりとリーフレットを作成しておりました。
書誌情報は以下です。

土屋誠一・佐々木友輔編『disPLACEment 「場所」の置換 vol.3 佐々木友輔New Film(TRAILer)』沖縄県立芸術大学土屋研究室、2016年

佐々木さんの撮影した動画のスチールに、私が書いたテキストが並走するという、そんな「トレイラー」になっております。
平綴じ8ページの、文字通りリーフレットですが、北野亜弓さん(calamar)の素敵なデザインで、かなり気に入っています。

これは、とあるところから助成金をいただいて、それで実現できたプロジェクトで、リーフレットは無償でお渡しできます。
もし郵送希望の方がおられましたら、なんらかの方法で私に連絡ください。
私のメールアドレスは以下です。
tsuchiya(at)okigei.ac.jp
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by rnfrst | 2016-04-05 22:03

「展評 能勢裕子展」

 梱包のための木枠? そんな印象が一見すると強い。今回の個展で提示された、能勢裕子の作品は、立体であるため、ややもすると「彫刻」として読み込んでしまうかもしれないが、むしろ、近代以降の「絵画」と「建築」の文脈から読み解いたほうがいい。
 まず、作品の外側を囲む木枠は、絵画における外縁、建築における骨格と考えればいい。原則的には、この木枠によって限定された空間の中で、能勢の造形言語は駆動していると捉えるべきであろう。立方体の一番面積が広い面が、絵画における画面にあたる。人は絵画を観る際、一番手前に塗り重ねられた表面だけを観ているのではなく、意識的にせよ無意識的にせよ、複数の奥の層を見て取っている。
 建築理論家のコーリン・ロウは、近代建築を議論の遡上に上げつつ、絵画を参照しながら、「透明性」という概念を立て、それを二つのタイプに分ける。一方は、現象的な(虚の)透明性であり、もう一方は文字通りの(実の)透明性である。ロウが擁護するのは前者であり、作品の構造が明示的であるような後者を退け、観者に複雑な空間の読解を促す前者を重んじるのである。
 能勢は、木枠の内部にほぼ水平に重ねられた、半透明上の波板を複数枚挿入するが、それらが半透明であるゆえに、作品を一面から見ても、奥の空間を見通すことができない。けれども、作品の側面を見れば、木枠の内部空間が、それなりに複雑な構造を持っていることがわかり、観者は作品の周囲を見回ることでその構造を把握し、作品正面から見た視覚的効果を事後的に理解するのである。実際、正面から能勢の作品を観ると、半透明な色彩の帳のような視覚的効果を受けるだろう。
 ここまでは絵画という側面からの読解として、さらには建築的な側面からもまた、作品を分析する必要があるだろう。作品の正面に立って、目に飛び込んでくるものは、作品下部に添え付けられているパンチングメタルの板であり、キッチュなまでにメタリックな色彩で塗られた木の枝である。
これらは、木枠の構造から導き出されているというよりもむしろ、建築におけるオーナメント、あるいは、ファサードのデザインであることを示唆し、木枠という構造体からは着脱可能な「部分」として組み込まれている。このような人工的な素材を、構造的な必然性とは別に、あえて前面に出す手法は、フランク・ゲーリーの建築を想起させるが、そのことでかえって、絵画―彫刻―建築という、今日ではほぼ完全に分化されてしまった諸ジャンルが、実は往還可能であることを示している。
 画廊の上の階には、レリーフ状の作品も展示されているのだが、もはや紙幅がない。この作品も、前述したような分析の手続きで概ね読解できると思われる。この展評では、あえて難解な議論を展開してみたが、つまり能勢の作品は、このような分析に耐える強度を持っているということだ。とはいえ、必ずしもこのような読解に従う必要はなく、端的に観て愉しい作品であることもまた、言い添えておきたい。

『沖縄タイムス』2016年3月2日
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by rnfrst | 2016-04-02 12:47