2011年、18年と、佐喜眞美術館での充実した個展を見てきた上で、今回の、空間の性質上、必ずしも広いスペースであるわけではない商業ギャラリーで、長尾紀壽の作品を実見できるのは、なんとも新鮮な体験であった。展示されている作品に、取り立てて新機軸が打ち出されているわけではなく、むしろ、これまでの長尾の仕事を、中規模から小品まで含めてじっくりと対面することができるという、親密な空間が展開されている。長尾の作品は、型絵染という線や形をどちらかといえば明瞭にあらわす技法の特性もあってか、優しさや穏やかさよりも、力強さや清廉さといった特性のほうが際立つように思われる。実際、過去の佐喜眞美術館での個展では、観るものの視線をはね返すような強靭さが、長尾の作品の魅力だったと思う。けれども今回の個展の、このいわく言い難い親密さは、どうしたことだろうか。
久しぶりに、この老練といっていい境地に達した芸術家と、つれづれに対話したところ、ここ数年、長尾本人にとってのアクシデントが続いていたことを知った。ひとつは、比較的直近に、外科手術を要する腰の病気に見舞われていたということ。作品の制作上、どうしても腰部に負担がかかることを避けられないため、型紙づくりや染の作業を、かなりの程度制限されざるを得ない。しかし、既に傘寿も通過した、大ベテランの作家に、身体の健康上の不具合が起こることは、避けることは難しい。加えて今回、藍染めの端切れを組み合わせた小品が複数展示されているのだが、これは、保管してあった過去の大作が、シロアリに食われる被害に直面した苦肉の策として、虫食いの部分を避けて、作品を切断して張り合わせて再構成したものであるという。なんとも不運続きであることは否めない。
今回の展覧会には、「断片」というタイトルが付されている。諸々の回避できないアクシデントによって、致し方なく、過去作品の文字通りの「断片」も含めて、展示を構成したからこそ、こうしたタイトルが付されているわけだ。しかし、だからといって、本展を観る価値のないものでは決してないことは、強調しておかねばならない。作家が老いてバラバラな断片しか提示できないと解釈するとしたら、散漫な展示になっていたはずだが、決してそうはなっていないのが、今回の個展の肝である。
むしろ、いかに小品であっても展覧会を構成する欠かすことのできないピースが慎重に配置されて互いに響きあうことで、上述したような、いままでの長尾ならば見せなかったような親密な空間が現出していることに、奇跡のような思いを抱かざるを得ないし、作家の強い意志がそうさせているのは当然としても、それは「祈り」のようなものと言っても過言ではないように思う。そうした空間を作り上げた長尾に、「断片の矜持」というフレーズが脳裏をよぎるのは、私だけだろうか。
病を経て、ベッドと車椅子での生活を余儀なくされた晩年のアンリ・マティスが、はさみと色紙との画面構成による新境地を開拓したことは、美術史上においてよく知られたエピソードである。創作の奥深さに取りつかれた芸術家は、その活動を停止することができないのだ。長尾の好むモティーフのひとつである、根の生えた島らっきょうのごとく、その作品はしぶとく根を生やしつつも常に新鮮であり、そして優しいのだ。
『沖縄タイムス』2022年5月25日