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rainforest

stsuchiya.exblog.jp

【2020年8月8日(土)】「クリエイティブな部活動♪キックオフミーティング!」ディスカッション登壇@Zoom

下記イヴェントに登壇します。
開催場所は沖縄県内ですが、Zoomでのリアルタイム配信になりますので、どこにおられても申込すれば参加できます。
ぜひご参集ください。

「クリエイティブな部活動♪キックオフミーティング!」

今年度から、『アーティスト開発する社会教育プログラム』に取り組みます。そのキックオフとして「顧問はアーティスト!クリエイティブな部活動 キックオフミーティング」を開催します! 部活動は、学校だけじゃない!? 地域の部活動があってもいいじゃない♪ 県内外で活躍するアーテイストを顧問にむかえ、新しい部活動のカタチに挑戦します。アートな部活動を通して、性別や世代・国籍を越えた交流をしてみませんか?

◇ミーティング内容
地域にある資源やスキルを地域社会に還元できる仕組みや場の作り方について話し合います。
①講演:藤浩志(現代美術家・秋田公立美術大学大学院教授)
②トークディスカッション「アート×社会教育」
ゲスト:藤浩志(現代美術家・秋田公立美術大学大学院教授)
    上田假奈代(NPO 法人「こえとことばとこころの部屋」代表)
    土屋誠一(美術批評家、沖縄県立芸術大学准教授)
進行:宮城潤(NPO法人地域サポートわかさ・那覇市若狭公民館館長)
③部活動紹介&部員募集
・儀間朝龍(アーティスト、「rubodan」代表)/ダンボール部
・平良亜弥(アーティスト)/ポストポスト部

◇開催日時
令和2年8月8日(土)18:30〜20:30

◇参加方法
ミーティングはzoomで開催するため、PCやスマホ、タブレットがあれば参加できます。
参加者には、ミーティングID等をメールでお送りするため、事前のご予約が必要です。

◇お申し込み・お問い合わせ
電話:098-917-3446
メール:info@cs-wakasa.com
NPO法人地域サポートわかさ(担当:新垣)

令和2年度沖縄文化芸術を支える環境形成推進事業
「アーティストと開発する社会教育プログラム」
主催:NPO法人地域サポートわかさ
支援:沖縄県、公益財団法人沖縄県文化振興会
https://cs-wakasa.com/


# by rnfrst | 2020-08-03 15:01

展評「平敷兼七/石垣克子「写真と絵画展」」

 写真家の故・平敷兼七と、画家の石垣克子との二人展とは、なんとも奇妙な組み合わせだ。この二人展の開催は、単なる思い付きのコラボレーションではなく、相応の理由がある。石垣の比較的初期のキャリアである、1998年の個展から、2004年に石垣が、同じく画家の仲本京子と行った二人展までにかけて、その展覧会の様子を、平敷が撮影しているのだ。これは、石垣が平敷に撮影を依頼したわけではなく、展覧会のオープニングパーティーなどに平敷がふらりと現われ、その様子を撮影していったという。しかも、単に撮影するだけにとどまらず、平敷はそれらの写真を私家版の写真帳として製本し、石垣に無償で手渡していたそうだ。石垣の手元には、平敷が手渡した6冊の写真帳が残っている。平敷が美術家のパーティーに足を運んでその様子を撮影し、写真帳を手渡すといった行為の対象は、石垣だけに特別に行われていたわけではないそうなのだが。

 このような、平敷にとっては一文の得にもならない行為をしていたことについて、どう考えればいいのか。一言で言えば「贈与」となるだろうが、人類学者マルセル・モースによって深く検討された、社会制度としてのそれ(そこには、「交換」という経済行為が付随する)を踏まえつつ、思想家ジョルジュ・バタイユが提起した「蕩尽」という概念が、それにあたると言えるだろう。これは、極めて過激な行為である。なぜなら、蕩尽とは、交換の駆動力となる贈与とは異なり、経済的な有意性とは全く無縁の、むしろ世俗的な有用性に対して、できうる限り反逆を試みるための、価値破壊的なものだからである。平敷が撮影しているのは、いわゆる「作品図版」とか「会場写真」のような、展示記録的なものではなく、芸術という場に展開されるパーティー(祝祭)とそこに集う芸術家たちの姿だ。平敷には展覧会のオープニングが、創造者たちの聖なる祝祭空間に見えていたはずだ。自らも聖なる創造者である平敷が、石垣のような優れた美術家に「蕩尽」的行為を行うのは当然のことであり、それがもし贈与に基づく等価交換的なものであるとしたら、むしろ芸術を損なうのである、と。

 平敷が生前遺した、石垣の展覧会の様子を撮影した写真と並行して展示されるのは、石垣の手元に残った、平敷が撮影したかつての展覧会で展示された旧作である。ベン・シャーンの油彩画を想起させるような石垣の旧作は、今はこの世から去った平敷に対する、遅ればせながらの返礼としての蕩尽だ。そのような、聖性によって結ばれた芸術の共同体という至高の姿を、我々凡俗の人間たちが垣間見たいならば、世俗的な金銭による贈与をもって替えるより仕方がないことを弁えたほうがいい。
『琉球新報』2020年4月30日


# by rnfrst | 2020-05-01 14:55

【コメント寄稿】「美術と表現を続けるための21の提言」『美術手帖』2020年4月号

『美術手帖』最新号の、2020年4月号「特集:「表現の自由」とは何か?」中の、美術関係各者が文章を寄せている表題の提言集で、私もコメントを寄せています。
結構重要な特集号だと思いますので、ぜひお読みいただければと思います。

# by rnfrst | 2020-03-13 13:28

【エッセイ寄稿】野村浩『Merandi』刊行

告知が遅くなりましたが、エッセイを寄稿した、野村浩さんの作品集『Merandi』が刊行されています。
私が寄稿したテキストは、
「野村浩『Merandi』によせて」
という、そのまんまのタイトルですが、拙稿はもとより、そもそも野村さんのこの作品集がとてもチャーミングで素晴らしいので、みなさんぜひ、お買い求めいただければ、と。
この作品集は、現在、POETIC SCAPEで開催されている野村さんの個展に合わせての刊行です。
ギャラリーにてお求めいただけます。

https://www.poetic-scape.com/

# by rnfrst | 2020-02-28 16:08

【エッセイ】「山城知佳子《あなたをくぐり抜けて》に寄せて」

山城知佳子《あなたをくぐり抜けて》に寄せて

土屋誠一(美術批評家/沖縄県立芸術大学准教授)


 山城知佳子による、マルチメディアシアターピース(と呼ぶより形容しづらい作品だ)、《あなたをくぐり抜けて》(2018-2019)の、那覇公演(2019年)を観た。残念ながら、那覇公演の前年に行われた、本作初演の京都公演は見逃してしまったものの、その記録映像は運よく事前に拝見していたので、本作のおおまかな筋立てはあらかじめ把握していた。にもかかわらず私は、那覇での公演を会場で体験して、いい年をした中年男性が恥ずかしいことに、涙ぐんでしまった。みっともない顔を晒すのも気が引け、会場に居合わせた友人・知人らへの挨拶もそこそこに、そそくさと自宅に引き上げたことを告白しておく。公演当時、SNSでだけ感想をアップしたが、この作品については批評家の職責を放棄し、豊かな経験を自分の胸の内にだけしまっておけばいいとすら思っていたが、アーティストご本人より、テキストの依頼を光栄にもいただいたので、当時の記憶や記録映像を紐解きつつ、このテキストを記している次第だ。
 《あなたをくぐり抜けて》は、映像作品《沈む声、紅い息》(2010年)を皮切りに、傑作と言っていい、マルチスクリーンによる映像作品《土の人》(2016年)に至るまでの、山城の仕事が、シアターピースとしてコンデンスされた、ひとつの到達点だと言える。大上段に語られるわけではないが、山城のライフワークといっていい、「沖縄戦の継承」がモティーフになっているという点では、映像作品で言えば《あなたの声は私の喉を通った》(2009年)の頃から取り組まれてきている問題が、継続しているとも言える。実際、本作品の過程で、会場に設えられたスクリーンに投影される映像には、沖縄戦時のアメリカ軍によって撮影されたフッテージが使用されてもいるが、必ずしも「沖縄戦」という特定の戦争の継承のみに特化しているわけではないと考えたほうがいいだろう。むしろ、過去から現在にまで繋がる、沖縄戦に限らないさまざまな痛苦の声を分有することが重要な点になる。舞台と客席を隔てない会場を、あたかも亡霊であるかのようにさまよいつつ、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、戦場体験の語りを、それこそ他者の語りを「喉を通」すかのようにつぶやく白装束の一群は、生から死への過程を辿るかのようだ。いや、より正確に言えば、生から死ではなく、ジョルジョ・アガンベン的なホモ・サケルとしての群れ、ビオス(人間的な生)から、ゾーエー(ただ生きているだけの生)という、苛酷な状態を生きているとも言えるかもしれない。戦場下における生とは、ゾーエー的な、むき出しの生を生きざるを得ない、人間性を剥奪された生であろう。群れのなかの一人のラッパーは、ハンドマイクを持って、切々と人間の愚かさを訴えるが、その切実な訴えも、苛酷な現実においては無力にすら感じてしまう。
 一方、別の観点にも、触れておく必要があるだろう。この作品は冒頭、会場に設えられたリビングのような空間から、物語がスタートする。一人の男がリモコンでテレビの電源ボタンを押せば、テレビモニターに映るのは、安倍晋三とドナルド・トランプとが並び立つ記者会見の模様が流れる。リビングにいるのは、本作の音楽的側面をライヴパフォーマンスで担う、DJとヒューマンビートボクサーだ。山城のこれまでの作品を辿れば、音響という側面は作品においてかなり大きな比重を担う要素となっており、とりわけ《肉屋の女》(2012年)以降がそうであると思うが、音響による想像力への喚起力が際立つ。ヒューマンビートボックサーとDJは、彼らのパフォーマンスのスタート時においては、沖縄戦時の映像フッテージに合わせるかのように、爆撃機の飛行音、投下される爆弾の落下音、着弾する爆撃音といった、破壊的な音響を模倣する。それら断続的な音響は、次第にリズムを構成し始め、ダンスミュージックのリズム的基礎になるバスドラム、ハイハット、スネアドラムといった要素へと変貌し、投影される映像もまた、クラブのVJさながら、極めて短いカットがリズミカルにスイッチされる。ここで正直に告白しておかなければならないのは、その破壊からのダンサブルな展開には、ある種の爽快感すら覚えてしまうことだ。つまり、ダンサブルな展開に、うっかりノッてしまうわけだ。これはいわば、戦争の疑似体験、いや、幸いにも戦争を疑似体験しかしてこなかった私たち比較的若い世代の、軽薄さとでも言えるかもしれない。私たちが身近に知っている「戦争」は、爽快な戦争映画か、戦闘ゲームといったような、日常の煩わしさからひと時の爽快感を与えてくれる疑似的な殺人体験、疑似的な破壊体験、そうしたもの以上でも以下でもない。そのような、軽薄な残酷(あるいはその逆でもいい)さ、とでも言うべき場面が、観客のいる空間を濃密に、圧倒する。
 では、そのようなシミュレーション的な破壊(これは、近年の兵器における、テクノロジーの高度化と、メディアを通じて届けられる「仮想戦争」的表象の氾濫と、パラレルな関係にある)に陶然とすることを是とするかと言えば、当然山城の作品は、そのような今日の疑似体験を示唆はするものの、肯定するはずもない。白装束の群れたちは、次第に声を喪失し、ゾーエーとして観客たちのあいだに身を横たえるが、戦闘による破壊が終結した後に、映像と音響によって、再び芽吹く平穏が描かれる。ここは永遠の平穏に守られた天国=あの世であろうか? いや、そうではないだろう。むしろ、ひとときの破壊の爽快感を得るような、高じれば戦争へと結びつくような、人間の醜悪さ、愚かさによって構成されるような世界のあり方を是としない、別の世界の可能性を希求する抵抗が示されるのだ。ゾーエーへとその価値を貶められてしまった、横たわる群れは、自分たちの力で手を真っ直ぐと上にあげ、ゆっくりと拍手をはじめる。やがてその拍手は速度を増し、会場いっぱいに咲き乱れる花が、胞子を跳ね飛ばすように、空間を満たす。拍手がピークに達すると、スティーヴ・ライヒの《クラッピング・ミュージック》を彷彿とさせる、ポリリズミックなハンド・クラッピングが奏でられる。各々個別の振る舞いが、結果的にひとつのポリリズミックな調和を形成する、換言すれば、複数なる個別性が、結果的に単一の共同体を形成するような、そんなビオスのあり方が提示され、そこで作品は終幕する。この作品は、明日へ向けての生きる力として、未来のほうへと差し向けられるのだ。

 この作品の大まかな要素は、以上のようなところである。ここで、この作品の潜勢力となり得ていると思われる、二つばかりのポイントを提示しておきたい。
 一つは、この《あなたをくぐり抜けて》が、映像から身体を奪還、あるいは再獲得するような作品であるように見受けられる点だ。山城の沖縄戦からの「継承」とは、凄惨な戦争に巻き込まれた沖縄の住民たち(そこには、不幸にも命を落とした人々もいれば、幸運にも生き延びた人々もいる。とはいえ後者であれ、戦後においても戦中のトラウマに苛まれる人々も少なくない)から、今日、何が受け取れるかという課題であると言えるだろう。かつて大島渚は、太平洋戦争のTVドキュメンタリーの演出に携わった経験から、「敗者は映像を持たない」と喝破した。このテーゼは裏返せば、「勝者のみが映像を持つ」と言い換えてもよいだろう。実際、前述したように、《あなたをくぐり抜けて》で会場に投影される沖縄戦時のフッテージは、勝者であるアメリカの映像アーカイヴから借用されたものである。戦後、沖縄において、沖縄戦体験者の証言が、研究者の調査記録はもとより、県史、市町村史、字史に至るまで、様々なかたちで残されているのと並行して、静止画・動画ともに、米国のアーカイヴから収集されたという事実は、「沖縄戦の実相」を知りたいという要求のみでは、説明がつかない情熱が込められているように思う。そこには、たとえ米軍からの視点で撮影された映像であっても、沖縄戦において損なわれた大切な何かを、なんとかして取り戻したいという願いが込められてはいないだろうか。映像作品を手掛けてきた山城が、《あなたをくぐり抜けて》という、生身の身体がパフォーマーとして登場する、シアターピースを手掛けることになったのは、いわば、「いま・ここ」から懸隔した映像から、私たちがビオスとして生きる根幹である身体を奪還すること、映像によって表象されていた身体性が、比喩的に言えば2次元のスクリーンからせり出してくる、そのような願望が現実化したがゆえなのではなかろうか。沖縄戦の戦没者に限らず、望まずとも生の終焉を迎えざるを得なかった多くの人々の記憶もともに、「いま・ここ」の私たちの生へと繋ぐこと、そしてそれを、未来に向けてさらに散種していくこと、そのような企てだったのではなかろうか。
 二つ目は、《あなたをくぐり抜けて》に限らず、山城の過去の作品である《肉屋の女》(2012年)や《土の人》にも見出せる、「洞窟」というシークエンスの重要さである。《あなたをくぐり抜けて》においても、白装束の群れが横たわり、再び芽吹くまでの間が、あたかも地下茎をさまよっているような経験を催させるものであったが、山城の作品における「洞窟」の「中に入っていく」シークエンスは、こことよそ、過去と現在と未来、そういった懸隔をつなぐためのパサージュとしてある。ゆえに、過去は忘却せず、現在を生き、未来を切り開き、沖縄とどこか、あるいはこの世とあの世といった、時空間をつなぐためのものとしてあるのだ。このような「洞窟」のありかたについて、私は「ニライスク」と呼びたくなることを禁じ得ない。この、沖縄における古語に関しては、沖縄という地の空間構成について過去に論じたことがある(「一九四五以前の「沖縄美術」?」『ゲンロン』3号、2016年)ので深くは立ち入らないが、高みに超越するのではなく、横へ横へ、水平方向へのネットワークによって、時間や空間の懸隔をショートカットすること、人と人(お望みならば、人ならざるものをも)とがつながり得ること、そういったヴィジョンとして、山城の作品を理解したい。《あなたをくぐり抜けて》というタイトルが示すように、水平方向への運動こそが、山城の作品における重要な点なのではなかろうか。哲学、政治、そして芸術もまた、しばしば垂直方向への超越する権能を志向するが、山城の作品はそうではなく、人々が水平方向において協働し得るということを志向する。だから、白装束のパフォーマーは、横たわったとしても、否、横たわっているからこそ、横たわらざるを得ないぐらいに、一人一人においては無力であるからこそ、横たわったままでのつながりを、なんとかしてたぐり寄せるのである。
 人と人とがつながり得る、当たり前かもしれないが、現実にはしばしば困難なことの、それが実現し得ている奇跡的な光景を目撃すれば、人間社会の不条理に対してシニシズムに陥っている人間であればこそ、涙を禁じ得ないはずだ。その奇跡的な光景との邂逅からは、鑑賞者は再び、自らの生においてなすべきことは終わってはいないのだ、というメッセージを受け取るはずだ。世の中には暗いニュースばかりが伝えられて、なにもかも投げ出したくなるぐらいに、暗澹とすることが少なくないが、山城の作品が、その暗く陰鬱な微睡みに光を与えてくれるように、なにもかもが終わったわけではないのだ。

(以上は、「山城知佳子「あなたをくぐり抜けて」記録映像上映会」(2020年2月7日〜9日、INTERFACE-Shomei Tomatsu Lab.)会場にて配布されたテキストである)


# by rnfrst | 2020-02-09 20:43

「疑似恋愛的五角形の美 『ツルネ 風舞高校弓道部』論」『アニメクリティーク』10号(総記 京都アニメーション)

アニメーションの批評系同人誌『アニメクリティーク』に、表題の論考を寄稿しました。
初売りは、昨年末の冬コミで、著者献本分もとっくに届いていたのですが、年明けの業務やら、体調悪い(持病のヘルニアの激痛……)やらで、告知が遅くなってしまいました。
『アニクリ』のこの号は、昨年、凄惨な放火事件に巻き込まれてしまい、優秀なアニメ制作者の方々の多数の命すらも奪われてしまった、京都アニメーションに報いるためになにかできないか、という想いから、編集発行人であるNagさんが立ち上げた特集号です。
当該誌の山田尚子監督特集号にも寄稿させていただいたように、私も京都アニメーションの作品をリスペクトする一人として、物書きとして京都アニメーションに少しでも報いることができたならば、有難い限りです。

「疑似恋愛的五角形の美 『ツルネ 風舞高校弓道部』論」『アニメクリティーク』10号、2019年

京アニのなかでも、比較的最近の作品である『ツルネ』を論じるにあたり、多少は弓道のことも知っておかなきゃ(もちろん私は弓道の素人です! 弓に触ったこともないけど、アニメ見て弓道やりたくなった 笑)と思い、いくらかは調べたりしたのですが、なかなか奥深い世界で、しかもそれが、しっかりアニメ作品として昇華されているな、というあたりを論じました。
同人ショップでの委託販売もはじまっているようですので、入手されたい向きは、『アニクリ』さんのTwitterアカウントやブログなどをご参照いただき、ぜひお読みいただければ幸いです!

https://twitter.com/anime_critique
http://blog.livedoor.jp/anime_critique/

# by rnfrst | 2020-01-12 18:42

「鴨志田一試論 『Just Because!』を中心に」『サブカル・ポップマガジン まぐま』PB11号

寄稿した『まぐま』の著者見本誌が届きました。
問題点無しとはせずども、私が最も評価する鴨志田一さんについての論考、多分これが最初のものなのではないかな?
拙論を端緒に、様々な鴨志田一論に出てきてもらいたいと願うばかりです。
書誌情報は下記のとおり。

「鴨志田一試論 『Just Because!』を中心に」『サブカル・ポップマガジン まぐま』PB11号、2020年

初売りは、冬コミになるのかな?いずれにせよ、書店などでも購入できるようになるはずですので、ぜひお読みいただければ幸いです。
鴨志田作品を読んだことのない人も、これを機に、鴨志田作品に触れる機会になることを期待します。
と、こういうテキストを書くチャンスをくださった、『まぐま』の発行編集人である小山昌宏先生に感謝です!

雑誌のリリース情報については、小山先生のウェブサイトや、Twitterアカウントなどをご参照ください!
https://ccu48870.wixsite.com/pop-culture-homepage

# by rnfrst | 2019-12-15 17:43

沖縄県立芸術大学芸術学専攻特別講座「〈辺境〉島国の感性のかたち アイルランド美学を参照軸として」(講師:桑島秀樹先生) 2019年12月20日(金)

私の所属先の主催で、表題の特別講座が開かれます。と言っても、私が桑島先生をお招きしたわけではなく、同僚の喜屋武盛也さんのご尽力の賜物なのですが。ともあれ、確実に興味深い内容の講座になると思いますので、どうか皆様、ご参集ください!

沖縄県立芸術大学 芸術学専攻 特別講座
〈辺境〉島国の感性のかたち アイルランド美学を参照軸として

講師:桑島秀樹先生 (広島大学 大学院総合科学研究科 教授)
日時:令和元年12月20日(金) 18:30~20:00
場所:沖縄県立芸術大学当蔵キャンパス 一般教育棟3階302教室


ユーラシア大陸の極西(ファー・ウェスト)に位置するアイルランド。それは、「愛蘭土」「あいるらんど」と変奏される、夢うつつの国。
極東(ファー・イースト)の島国に生きるわれわれは、そこに息づく「感性のかたち」に、どのような思いを抱くであろうか。「インターフェイス」や「メタモルフォーゼ」をキーワードに、その美のあり方、芸術のあり方を、ここ沖縄/琉球という南の文明交差点で、ざっくばらんに語ってみたい。否、語り合ってみたいのだ。(桑島)


講師略歴:1970年群馬県生まれ。大阪大学文学部(美学・文芸学)卒業、同大大学院文学研究科修了。博士(文学)。2016年2月より現職。主書に、『崇高の美学』(講談社、2008年)、『生と死のケルト美学』(法政大学出版局、2016年。第14回木村重信民族藝術学会賞)など。

沖縄県立芸術大学芸術学専攻特別講座「〈辺境〉島国の感性のかたち アイルランド美学を参照軸として」(講師:桑島秀樹先生) 2019年12月20日(金) _d0171428_09533146.jpg


# by rnfrst | 2019-12-01 09:56

「彫刻書記展」@四谷未確認スタジオ(2019年11月29日~12月15日)へ参加

今日から、彫刻家の鈴木操さんの企画による、「彫刻書記展」がスタートしています。
この展覧会は、いわゆる美術作品が展示される展覧会ではなく、美術家から美術評論家まで、美術にかかわる様々な論者が、彫刻について論じたテキストが、この展覧会の会期中に会場で手に入れることができる、というものです。
私はこの展覧会に、寄稿者として参加しています。
なんとも説明が難しい、というか、私なりにこの展覧会が意図するものを語ることはできると思うけれども、変に説明してしまって、企画者の鈴木さんの意図とズレたり、あるいはこの展覧会に関心のある人の、その関心の方向性を限定するのもよくないと思うので、まあともかくそういう展覧会なのだ、とだけ申しておきます。
ぜひご来場を!

「彫刻書記展」

会期:2019年11月29日 (金) - 12月15日 (日) ※金土日のみオープン
会場:四谷未確認スタジオ (東京都新宿区四谷4-13-1)
時間:13:00 - 20:00
入場料:500円
寄稿者:遠藤麻衣、大岩雄典、小田原のどか、利部志穂、齋藤恵汰、gnck、柴田英里、鈴木操、関真奈美、高橋銑、土屋誠一、長谷川新、原田裕規、布施琳太郎、眞島竜男、峯村敏明 (五十音順)
主催:四谷未確認スタジオ
企画:鈴木操
協力:西田篤史
展覧会イメージヴィジュアル:山本悠


関連イベント

11月30日 (土) 17:00- / オープニングパーティ
12月6日 (金) 17:30- 19:00- / 読書会・トークイベント / ゲスト:梅津庸一、 長谷川新
梅津庸一さんがゲンロンβ39に寄せられた「展評――尖端から末端をめぐって 第7回ステージの上の彫刻たち――小谷元彦「Tulpa - Here is me」展によせて」の読書会を行います。その後19:00から梅津庸一さんと長谷川新さんをお迎えしてトークイベントを行います。

12月14日 (土) 18:00- / トークイベント / ゲスト:利部志穂、 眞島竜男、鈴木操
トークテーマ「パフォーマンスと彫刻」

http://clt981295.bmeurl.co/95DB1F4


# by rnfrst | 2019-11-29 19:01

「波多野泉の彫刻作品について 今日における「彫刻」の位置から」『上條文穂と波多野泉 現代彫刻展』カタログ

ちょうど今日まで、沖縄県立博物館・美術館で開催されている、「上條文穂と波多野泉 現代彫刻展」のカタログ、10月25日に刊行されました。
この展覧会カタログ、上條さんのもの、波多野さんのもの、と、それぞれ二分冊になったものが、専用ケースで一点になっている、という凝った造りになっており、私は波多野さんの巻に論考を寄せました。
書誌情報を正確に記せば、下記のとおりです。

土屋誠一「波多野泉の彫刻作品について 今日における「彫刻」の位置から」『上條文穂と波多野泉 現代彫刻展 令和元年度 沖縄県立博物館・美術館企画展』沖縄県立博物館・美術館、2019年。

考えてみれば、私は「彫刻」というジャンルにおける、ジャンル論も作品論も作家論もほとんど書いたことがなく、書くのに難儀したけれども、波多野泉さんという彫刻家の仕事を論じている、かつ、今日の「彫刻」の置かれているポジションを踏まえつつ、そこにどういう可能性を見出すか、という点では、結構悪くない論考になったんじゃないかと思うところです。
上條文穂さんは、既に定年退職されて、現在は名誉教授、波多野泉さんは彫刻専攻の教授と、お二人とも、私の本務校である、沖縄県立芸術大学の同僚かつ年長の先輩にあたるわけで、波多野さんのパートを私が論じるというのは、責任重大で滝汗……という感じではあったのですが、展覧会はお二人の作品とも素晴らしいものになっているし、波多野さんのこれまでのキャリアを勉強させていただいて、「ああ、こんなことを考えて作品創っておられたのだな」といささかの感動もあったりして、とにかく書かせていただくいい機会を頂戴した、という感じです。

というわけで、展覧会は今日までなので、沖縄県外の方は難しいかもしれないけれども、沖縄本島在住の人は、即座にダッシュすれば間に合うぞ!ついでにカタログも買って、私の論考も読んでもらえると嬉しいです、というところです。

# by rnfrst | 2019-11-04 12:34