人気ブログランキング |
ブログトップ

rainforest

stsuchiya.exblog.jp

展評 丹治莉恵個展 ZONE

 端的に言えば、ミニマルアートの彫刻か。そんなふうに、簡単に片づけることもできなくはないだろうが、作品はより繊細に読まなければならない。実際、丹治の作品には、さまざまな「読み」を誘発させるような仕掛けが施されている。
 まず、会場に入った際の印象は、一般的な身長のサイズを優に越える、比較的大きな漆黒の物体が醸し出す威圧感だ。どの作品もシンプルな形態を持っており、あたかもリチャード・セラの作品がそうであるような、心理的な威圧感と重量感を感じさせる。しかし、作品の裏側に回ってみると、形態を保持している石こうが、むき出しの状態になっていることがわかる。石こうは、鉄や鉛に比べれば、ずっと軽い素材である。丹治は、石こうで型取りした形態の、つるつるの表面のほうには、重量を感じさせる黒鉛を面全体に染み込ませるように擦り付け、裏面は生の石こうをそのままの状態にしているのである。
 心理的な威圧感と重量感を与える表面に比して、むき出しの白の裏面は、表面のそのような感覚は実は偽の幻影であって、物体としては実際には「ハリボテ」であるということを示している。いや、情報化の加速する時代に生きる私たちにとっては、物理的な重量のほうが遠いものであって、むしろ「ハリボテ」の世界にいるのかもしれない。
 ところで、丹治が提示する物体のタイトルには、「coner(角)」、「partition(仕切り)」、「pole(柱)」といった名前が与えられており、それぞれ文字通りの形態を持っている。これらは、「角」であれば面と面が重なり合う部分、「仕切り」であれば壁、「柱」は床と床とを支えるもの、といったように、つまりは建物(四角い箱、ということになるが)を成立させる最小限の条件がバラバラに示されている。
 ここからも理解できるように、丹治がこれらの建物の諸部分によって示そうとしているのは、バラバラの「ハリボテ」として建築物である。
 丹治が示すのは、両義性である。重いけれども軽い、建物だけれども建物ではない、本物だけれど偽物でもある、といったように。物事の本質と、われわれの思い込みを、文字通り物体の表と裏で表そうという試みであると考えたほうがいい。
 しかし私たちは、どちらが「本質」でどちらが「思い込み」であると、明確に判断することはできるだろうか。私たちの知識の分量が増えれば増えるだけ、あるいは、さまざまな情報に触れれば触れるだけ、一体何が本質で、何が思い込みなのかの区別が難しくなる。今日においては、明快な「正しい」答えなどはどこにもない。丹治は、明快な物体を提示することによって、私たちの不明快さを明らかにするのである。
 ところで、作者は次のような記述を嫌がるであろうが、丹治が福島を故郷に持ち、沖縄に在住するアーティストであることと、このような作品を制作することとは無関係ではないと思われる。福島も沖縄も、困難な「ZONE(地帯)」であることを考えれば、そのような場から立ち上げられる作品=思考であるに他ならないからだ。

『琉球新報』2015年3月26日
by rnfrst | 2015-03-27 08:21
<< 美術月評〈3月〉 「展評 丹治莉恵個展 ZONE... >>