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「展評 タマナハマキ個展」『沖縄タイムス』2018年12月21日

 小さな展示室の中央には、使い込まれたテーブルと椅子が置かれている。一方の丸椅子の上には、白く繊維だけ残ったクロトン(ヘンヨウボク)の葉が座面からこぼれ落ちるほど積もっている。壁面には、青色の絵の具かペンで手書きの、ところどころには機械で印字された文章が、多くは半透明の紙につづられている。けれども、同一平面上にズレながら折り重ねられるように、同じ用具で記されていたり、支持体が物理的に重なっていたりして、通読できないものがほとんどだ。そもそも、あるまとまりのある文章として、読まれることを望んでいないのだろう。通読できるただひとつのものとして、この美術家自身による、作品の趣旨を簡潔に記した文章が掲げられている。
 以前は漢字表記の名前で活動していたはずの、若い美術家であるタマナハマキの、これが初めての個展になるそうだ。大学の建物の一角にある、小さな展示室が会場であるとはいえ、ちょっと力試しをしてみた、という気軽なものではなく、多くの人々が参集する会場でなくとも、身を削った表現として届くべき人たちに届けたいというタマナハの芸術家としての切実さが、展示の端々まで細心の注意を払ったと思しき、インスタレーションのそのたたずまいから感じられる。
 タマナハ自身による説明文によると、パーキンソン病の進行で身動きが不自由になった祖母との交換ノートが、今回の作品の基盤になっているという。孫娘と祖母との、手記によるコミュニケーションの媒介者は、祖母を定期的に見舞う祖母の娘、つまりはタマナハの母であるそうだ。先に挙げた理由で、ノートから選択されたであろう、壁面に掲示された文章から、全体の脈絡を把握するのは難しい。しかし、断片的に読むことのできるフレーズを拾っていくと、雄弁な言葉のやりとりがそこで行われているわけではなく、むしろ日々の些細な出来事を、文字取り散文的につづったような、そんな何げないコミュニケーションが行われているであろうことがわかる。このような朴訥さや、そもそも文字として表された文章がほとんど読めないという点から、そう密接な関係を築いてこなかったという孫娘と祖母との言葉のやりとりの難しさ、ひいては、今日的な、コミュニケーションの困難さ一般を読み取ることが求められているのかもしれない。けれども、話はそう単純ではないだろう。
 人間関係の多様なあり方が肯定的に語られる今日において、自らの祖母―母―娘といった、血縁を主題にすること自体、反動的とみなされるかもしれない。興味深いことに、彼女たちのやりとりからは、「男」の存在がほぼ意識の枠外に置かれているように見える。これを女たちの共同体の可能性と、肯定的に理解することもできるだろうが、転じて、その背後に家族制度を温存しているのだと、否定的に退けることもまた、可能だろう。タマナハ自身、自らが生まれ育った沖縄という土地へのこだわりを隠そうとしないが、それはつまるところ、地縁・血縁共同体を無批判に肯定していることのしるしだと、捉えられることもあり得るだろう。
 このような古い共同体(あるいは共同性)は、近代化にともなう人間のアトム化が進めば進むほど、厄介な遺制として必然的に忌避される。人間が一人で生きていくことがしんどいならば、新しい共同体へと速やかに移行することが求められるだろうが、しかし今日なお、そのモデルすら判然としない。しがらみからの自由を謳歌するのはいいが、孤独であることの底冷えするような不安が耐え難い以上、忌避したはずの共同性を誰が無視できようか。今日の社会や人々の価値観が、過渡期にあるからこそ、このような古さと新しさの間で、少なからぬ人々が板挟みの状態にあるのだろう。
 タマナハの作品の、隅々までいきわたる緊張感は、このような古さと新しさとの間に身を置くことを選択することの反映だろう。そこは決して居心地のいい空間ではないが、世の中が複雑であるということそれ自体に対して、明晰な感度を持つ人間だけが発することのできる美しさがある。

『沖縄タイムス』2018年12月21日

by rnfrst | 2018-12-22 14:59
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