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「表現の自由を考える 上 愛知「表現の不自由展・その後」

 「あいちトリエンナーレ2019」における、展示された美術作品での「慰安婦」、「昭和天皇」といった、センシティヴになりがちな表象をめぐって、インターネット上での「炎上」や、当該芸術祭実行委員会事務局への脅迫をほのめかす電話やFAXなどのクレーム、さらにそれに乗ずるように、いくつかの地方自治体の長は表現規制を促す発言を公的に行い、あるいは政府官房長官は文化庁を通じて芸術祭に投じられた助成金の撤回をほのめかした。このような破廉恥極まりない動向が、渦を巻いている。私は当該芸術祭を未見であるが、ニュースを見るにして既に、心底憂鬱である。敗戦後日本において、まともな民主主義的社会を成立させることに失敗したこと、加えて、20世紀から敗戦にまで至る、周辺地域への拡張主義的侵略について、その反省をも失敗した、この二つの失敗が露呈した、ということが、今回の騒動の根本であるように思う。このことは、本土からの沖縄に対する、今日も基地問題が典型であるような不当な扱いを日々見聞きする、沖縄で日々の生活を営んでいる私たちには、うんざりするほど見慣れた構図ではある。しかし、見慣れているからといってその深刻さは低減するわけではなく、むしろ、より危機的状況へと高まっているように思われる。
 まず、端的に言って、「慰安婦」や「昭和天皇」の戦争責任については、その事実性を受けとめた上で、繊細に議論を継続しない限り、近隣諸国との友好的な外交など期待できないということを認めるべきだ。慰安婦制度など存在しなかった、太平洋戦争は「正しい」戦争であったがゆえに、天皇には責任がない、などといった繰り言を反復して、「美しい国」としての日本に、自らのアイデンティティを仮託することは、いい加減やめたほうがいい。このような、歴史的事実に対する過剰な「否認」は、単なるナショナルな心情に基づく「反動」以外のなにものでもなく、諸外国から見れば幼稚な国民による幼稚な国家にしか見えないのは明らかだ。海外からの視点に立ってみれば、幼稚な国などに信頼を寄せないのは当然であり、国益(などという言葉は個人的には好まないが)を自ら損なうのは自明であろう。
 この、改めて論じるまでもないはずのことを、再び言わなければならないことに、やはり憂鬱を禁じ得ない。以上のような否認が激化し、正当であるとすら認識されつつある状況において、例えば沖縄戦を主題にしたり、あるいは米軍基地への批判的な視点を主題にしたりする作品(の多様な実践の蓄積を、各芸術ジャンルにおいて、既に持っているわけだが)が展開される場合、戦後補償や日米安保に基づいて「国の都合」が悪いと判断されれば、国や地方自治体であれ民間であれ、「公開を差し控える」としても差し支えないことが常態化する可能性を、強く危惧する。そもそも、芸術表現に込められた政治的態度表明に対して、国や自治体のような公的機関であれ、民間組織であれ、表現の場を封殺する、あるいは、資金的な援助を打ち切ることをチラつかせるなどといった威嚇を行うことは、既に各所で指摘されているように、いわゆる「表現の自由」に抵触することはもちろんのこと、鑑賞する市民の自発的な判断能力に信を置かない傲慢さのあらわれですらある。だが、実体があるかどうかもさだかでない「美しい日本」にアイデンティティを仮託しなければならないほど、今日の日本人は自信を喪失し、憤懣を溜め込んでいるのもまた、事実であろう。そのような「空気」に、芸術は圧殺される。
 けれども、そもそも芸術とは、即自的な理解や是非とは、いささか異なる位相にあることを、改めて想起したほうがいい。古代、そこまでいかずとも数百年前の造形物や文芸などに、なぜ今日の私たちが関心を寄せるのか。そこには「歴史のお勉強」や「教養」という実利だけでは説明ができない、いわば「理解しきれないもの」が豊富にあるからだ。芸術には、創造者自身も予想もしなかった数百年後を生きる人間にまで届いてしまう力がある。逆に言えば私たちには、今日生産される芸術作品を、未来を生きる人間に届けなければならない責任があるのであり、ゆえに拙速に「~は駄目なので排除する」という判断はしてはならないということだ。私たちは芸術に対し、もっと謙虚であったほうがいい。
 以上のことは、芸術の生産者や愛好家だけにかかわる問題ではない。なぜなら、芸術の営みもまた社会を構成する一要素である以上、愛好者の専有物ではないのであり、ゆえにそれらは可能な限り広く人々に開かれていたほうが合理的であるからだ。そのことで芸術が論争を引き起こしたり、貨幣やビジネス上の教養のような計量可能な価値として使用されたりすることもあろうが、芸術を擁護するということは、今日を生きる私たちが、未来に対する責任を負っていることを自覚することにあるのであり、このことを欠いては私たちの子の代、孫の代から「その時代の人間は幼稚であった」との誹りを受けても致し方ないことは、改めて認識しておくべきことだろう。

『沖縄タイムス』2019年8月15日
by rnfrst | 2019-08-17 17:55
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