今回の復刊で、『太陽の鉛筆』が広く目にとまるようになるならば、それ自体は慶賀すべきことだ。しかし、東松の仕事の系列の中で、『太陽の鉛筆』がとにかく収まりが悪いと、私自身ずっと思ってきた。
東松照明という写真家は、彼の言う「アメリカニゼーション」、目下の論壇の言葉に置きなおせば戦後日本の「永続敗戦レジーム」(白井聡)の様相に対して、自覚的に目を向けるということだった。それが東松の一生涯抱えたテーマであることは明白だと思う。とはいえ説明するのは簡単でも実践するのは困難であり、同時にそれは、15歳の年に敗戦を迎えたという世代だからこそなし得たのだと思う。そういった点で、私は東松照明という写真家を心底偉大だと思ってきたし、生前に何度かお目にかかった際には、あの世代の大物特有のオーラに、身の縮む思いをしたことは、今でも記憶に鮮明だ。
批評家の傲慢だと言われればそれまでだが、東松という写真家が日本の戦後の芸術において、歴史的にどれだけ重要な人物であり、一体何をなし得たのか、私自身が一番よく知っていると勝手に思い込んでいる(勝手に思うのは私の勝手である)。だからこそ、このなんとも語りづらい『太陽の鉛筆』について言及することは、可能な限り回避してきた。
『太陽の鉛筆』に至る過程の公式的な説明は、次のようなものだ。まず東松は、1950年代末から、日本国内各所に所在する、日米安保をその後ろ盾にするところの、米軍基地や基地街を撮影し始める。沖縄の本土「復帰」前、まだ撮影していない基地として沖縄のそれが残っており、その撮影のため、文字通り占領下が継続する沖縄に赴くことになる。それは、緊急出版的な趣でまずは『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』(1969年)という写真集として出版されるわけだが、異邦の地である沖縄に来て東松が気付いたのは、本土とは異なる沖縄の光や、街や村が醸し出す風土の違いである。それを捉えるために、モノクロフィルムからカラーフィルムに転換し、周辺の小島も含む宮古、八重山を南下しつつ、さらには、東南アジアまで、あたかも民族、あるいは文化のルートが海を隔てて繋がっていると見立て、東アジア、東南アジアの各地で撮影された写真と、沖縄でのそれをミックスするという編集手法をとった。そのことで東松は、「戦後日本」のくびきから解かれ、沖縄を出発地にして海上のルートを自由に行き来することになる、と。
以上が、私なりに要約した、写真家・東松照明の『太陽の鉛筆』に至る公式的な過程であるが、その説明で本当にいいのだろうか、そこにはいくらかの逃避は混ざっていはしないか、とずっと納得できないままできた。『太陽の鉛筆』には、東松自身のテキストが、他の彼の写真集と比べて多く収録されているし、並行してつづられたエッセイを集成した『朱もどろの華』という書物すら存在する。つまり、自由になった東松は、その前後の時代に比べて、少なくとも表面に見えるテキストの物量で言えば、あまりにも雄弁なのだ。そしてその雄弁さと裏腹に、『太陽の鉛筆』においては離脱したことになっていた「基地」は確かに存在していた(今もしている)のであり、その離脱した欠落の分だけ、言葉で覆い隠すことに執心しているように見える。
だからもし、沖縄にとどまって写真家としての活動を行うならば、在沖縄の写真家たちにとって敬愛する対象である反面、圧倒的な他者として君臨していた東松の『太陽の鉛筆』は、まずは括弧に入れて、自らの仕事に集中したほうがいいだろう。相変わらずの「占領」の下にある沖縄にいて、逃げ場のない焦燥感を抱えなければならないならば、『太陽の鉛筆』はあまりにも幸福に見えすぎると思う。私は、東松が抱えてきた「戦後日本」の「占領」という重苦しいテーマから、東松がひと時の離脱を試みた写真集だと考えており、その離脱に、東松がなんのわだかまりも感じなかったかと言えば、聡明すぎる写真家である東松は、恐らく前述のようなことも理解していたと思う。
『琉球新報』2016年7月2日
※タイトルに(下)とありますが、(上)は同紙前日掲載号に初沢亜利氏が執筆したものになります。